ベイクォーターで乗れる船

いつも思い返して不思議なのだけど、横浜駅に行くときは思っていた場所に行けないことが多い。

ケーキ屋もそうだし、チョコレート屋さんもそう。
栗原はるみのご飯屋さんがベイクォーターにあったころによく横浜に行ったけど、今は関東には日比谷にしかないらしい。

10年前、横浜から水上バスに乗った。その頃のイメージとは全然違ったぼろい船で触ろうと思えば海に触れるぐらい距離が近くて、しぶきが顔に当たってた。

あの頃は10分ほどしか乗らないのにこんなにお金かかるの?とか思ってたし、椅子が薄いブルーのプラスチックで、座る前に水に濡れていないか確認して座った。
誰と行ったかもあまりよく思い出せない。

君たちはどう生きるかをみた

金曜日に見てきました。現代美術の企画個展みたいな作りの映画で楽しかった。これは吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』のアンサー映画だと思う。

一部では宮崎駿の集大成などと誇張しているがそれは正しくない。集大成ではないがそれよりも良いものであるというのが私の感想です。
メーテルリンクの「青い鳥」をサギに置き換えたような進行で物語は進む。戯曲のような心象をつなぎ合わせたような作りである。
これはなぜかといえば吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」に対する、私はこう生きたぞというアンサーだからである。
新海誠に影響でもうけたんか?と思いたくもなるし、黒澤明の『夢』のような作りだ。

だから集大成というにはチャチな作りですべての表現が今までの映画の下位互換のように受け止められて自然である。
つまり、これまでの作品を彷彿とさせる各シーンはセルフオマージュではなく、ただの素描、デッサンというのが正しい。
あれは、小さい頃の宮崎駿がこう生きようと考えていたと、その現れと考えることができる。

最後の結末で、石を持ってきてしまった主人公は、ある意味子供のまま大きくなってしまった宮崎駿を指しているといってよい。
振り返れば自身の作品のエッセンスが人生のそこかしこにあったと。そういう意味である。
さて、ここまで読めば理由はともかく、僕がアンサー映画だと主張したいことがわかると思うが(笑)、この映画見て我々に宮崎駿が迫る回答は『お前らは何を考えてどう生きるつもりなのか?』ということである。

今回、宮崎駿が提示するメッセージはとてもわかりやすい。石を持って帰ってこいという話だ。今抱えているエッセンスを忘れないでというメッセージ。

ちなみに、公開直後の監督のインタビューはいつも嘘ばかりなので気にしてはいけない。

あ、そうだ。たぶん、あの映画には今までの作品になっていない未発表のエッセンスが巧妙に隠されているのでそれを探しながら見ると面白そう。

リトル・マーメイドを見た

働き始めてから一人で出張に行くことが多い。院生の頃は後輩と学会発表に行っていたので一人で行くとなるととても気楽で少し寂しい。今日から一週間を香川の小豆島で過ごすけど、岡山で育ったのに一回も行ったことがない。
瀬戸大橋も初めて渡ると思う。そんなわけで僕は今サンライズ瀬戸に乗ってこの文章を書いている。
八王子駅から横浜駅でサンライズに乗り換えて高松に向かう。高松には朝の7時すぎに着くし、横浜駅では途中下車をして腹ごしらえと映画を済ませてきた。八王子駅で髪の毛も切ったけど、サンダルを買うのを忘れたな。
時系列に逆らってしまったけど、このブログでは勘弁してほしい。細かいことはどうでも良くて今の思考を辿れたらそれでいいのだ。

サンライズ瀬戸

さて、リトル・マーメイドを見てきました、今日で2回です。前回吹き替え見たから今日は字幕だなって思ってたけど、どっちも字幕だったっぽい。今日見てわかるのだから本当に記憶というのは曖昧なものだ。
こんな言い方をすると、記憶が曖昧なんて頼りないと言われそうだけど、僕は曖昧な記憶に頼って生きていくことはなるべく減らしたい。記憶頼りに断言することなんて怖くてできない。だけど、記憶力に自身がないわけではないよ。

配役について疑義のある人がいるみたいだけどそんなことはない。とてもいい映画だった。

リトルマーメイドの実写版は『僕たちわかり会えるよね?』って問いかけだ。

意地悪なおばの魔女も見方が違うだけで無理解になる父も人間とわかり合いたいアリエルが傷ついたり、行動を起こすと出てくる。
いつも手伝ってくれるフランダーはイエスマンだし、セバスチャンはなんだかんだ味方になってくれる。

ものがたりはアリエルが父と言い争って「見方が違うだけなのに!」と叫ぶところから動く。

今作のアリエルは無鉄砲で無邪気なだけではない、賢く芯があって親思いのキャラクターだ。
物語は海と陸で進んでいく。
アリエルは自分の無知から父を危険にさらしてしまい、王子のエリックと一緒になって戦う。
アリエルは父に反省を示して、エリックはアリエルの残したドレスを抱いて母の「世界が違うのよ」という言葉でドレスを海に返す。

物語は一度、アンデルセンが記した結論を提示する。
そう、アリエルは泡になって溶けてしまったのだ。

そこから暗転して、経過を語られることなく、アリエルは父に人間にしてもらい陸に登り、いつの間にか理解者になった母に見送られてハッピーエンドだ。

本当に物語はハッピーエンドなんだろうか?暗転しての物語の結論は「見方が違う人とわかり会えることは難しい」ことを示唆しているんじゃないのか。
難しいけれど、「わかりあえるよね?」ってことだ。
アンデルセの物語からもう何年立つのかわからないけれど、僕たちはわかり会えるのだろうか?

みんなが抱えている、誰もわかってくれない、いつか泡になって消えてしまった気持ちにまた会える日は来るんだろうか。

車窓から見えるJRの線路には人がいないけれど、なんだか特別な感じがする。
泡になって消してしまっていたのは、誰とでもわかり会えるはずだっていう自分の気持ちなんじゃないのか、そう思ったら心の中のネプチューンや女王が自分の世界から出てはいけないとささやく。
映画は肝心なところは隠してしまって何も教えてくれなかった。

いい映画だけれど、諦観がところどころに見える。「理想よりも目の前の事が大事です」っていうセリフも実はなんの意味もなしていない。エリックの目の間にはいつも理想があったからだ。
エリックもアリエルも困難から逃げない。
問題の本質を見つめて逃さない。

問題の本質を逃さなければいつか分かりあるのだろうか、ぼくもあなたも。

鯉のぼり

僕に仲良くしてくれているイギリスの留学生が私はコイキングですと、ギャラドスになりますと言い始めた。
どうやら彼は最近、日本で鯉が龍になった伝説を聞いて感銘を受けたらしい。
「登竜門」とか言葉があるように、鯉が滝を登って龍になるって伝説のことをみんなが忘れていてもモチーフとして残っているのが面白い。

彼とのおしゃべりと簡単な打ち合わせを終えて自室に戻ると机の上に一枚の写真があった。L判のインスタントカメラで撮った写真、写真の周りに白い縁があって時代が立っているとわかる。
この写真のことはよく覚えている。
一番仲の良かった友達と鯉のぼりをつけた竹の棒をもって僕が写っている。
その日はなぜか父の機嫌がよくて家の裏にある竹の棒の先に鯉のぼりをつけて持たせてくれた。
友達とそれをもって外に出たけど、風が強くて鯉のぼりは小学低学年の僕らには重たかった。
友達がお母さんに見せたいと言ってその子の家に向かう途中、近所のおばあさんがニコニコしながら道に出てきて取ってくれた写真。
鯉のぼりを持って歩く僕らにみんな優しかった。

その後しばらくして、友達が亡くなってしまって、しばらくその写真は実家のアルバムに挟んで置きっぱなしにしていたけれど、大学院で思うように結果が出ない時にその写真を持ってきた。
なにか、友達が守ってくれるような気がして机の上において頑張ってきた。
僕が持っている写真は少なくてその写真以外は他の友達も写っているからなんだか悪い気がしてこの写真を持っているのだ。
留学生と話して、子供の日にとった写真だと思いだした。もう30年近く前だ。

あの頃の鯉を机に置いて、立派な仕事をやりたい。

お金とか賞とかじゃないあの頃の鯉に褒められたい。

龍になりたいとは思わないけれど、あの頃の鯉が僕にとっての希望だ。

コインランドリー

12時を過ぎたころ、アパートからコンビニまでの道を歩いていると、やけに標識やガードレール、横断歩道や歯医者の看板が目に入ってきた。
八王子は腐っても東京なのか、どこかの明かりがそれらを照らしていた。
ふと空を見ると、西の低い空に月明かりがしていて、暗い空に雲が平らに横たわっている。
信号機以外のすべての色がくすんでみえて、これがグレーって色なんだって意外な発見をして歩いた。
今年度は引っ越しするかもしれないとか思うと、街も違って見えるらしい。
コンビニで野菜ジュースを買って小銭を作ったら、またアパートに戻って残りの洗濯物をもってコインランドリーに向かった。

土曜日の今日は二週間分の洗濯物がたまっていて、それでも何もやる気がせず、夕方になり自分でもあきれながら5回ぐらい洗濯機にかけた。
二回に分けて今ランドリーの一番大きい乾燥機に持ち込んで8分100円、64分間乾燥機にかけた。
二回目にコインランドリーに行ったとき、19歳ぐらいだろうか、男の子が乾燥機に服を入れ、女の子が大きい洗濯かごに乗り込んでクスクス笑いながらはしゃいでいる。僕が入ると、少し二人の声のトーンが落ちたけれど、上機嫌のまま男の子が洗濯機に入れ終わると去っていった。

最近仕事では頼りにされることが増えて、自分しか問題点を理解していないような局面が増えた。普通なら黙っているんだろうけれど後で誰かが困ると思うと放っておけずに働いてしまう。それで事情を知らない人には僕が仕事を増やしているようにも見えるらしく、反感を買ってしまった。みんなできるだけ仕事を楽にしておきたいらしい。おしゃれな小説でよくある情景描写で登場人物の心理状況を描写するのは、あれは、テクニックじゃないんだって気が付いた。

今日はこの文章を書き終えたらコインランドリーに洗濯物を取りに行って、丁寧にたたみ終えたら仕事をして寝て仕事をしてスーパーに行って寝たら月曜日だ。もしかしたら日曜日には映画館に行ける時間があるかもしれない。
明日はありったけの糖分を買って来週の仕事がはかどるようにしてしまおう。
そして来週は忘れずに洗濯機を回そう。

そういえば2か月前に台湾へ遊びで行ったけれど、台湾のコインランドリーではコインを飲まれてしまった。台湾の街もくすんでいた。

あと二十年ぐらいして時間があったら小説を書きたい。

僕らの出会った場所

今年も去年も暖かい冬だなあとおもっていたけれど、そんなことは全然なかった。めっちゃ寒い、最強寒波らしい。12月にコンバースの綿のダウンじゃないダウンを買って着ている。

去年の3月からSpotifyに月額980円を払って音楽を聞いているのだけど、ここ3か月はずっとSalyuの歌しか聞いていない。最近は「僕らの出会った場所」ってやつを聞いていて、
言葉にできない感動を言葉にしようとしてこの文章に向き合っているけど、うまく言葉出来ない。

はじめは歌詞かなと思ったけど、たぶん違う。声がいいのだ。声がいいから歌詞はあんまり耳に入ってこない。声がいいから歌詞の文章の意味がよくわからないのに言葉だけが入ってくる。

燈台も星も光るものは君を指している。どこかではなくて何かでもなくて君という人間を指している。

場所や位置ではなくて人間を照らしている。それが分かる声だ。

すずめの戸締りをみた

日曜日の朝、fitbitが届いて、設定をしていたら昼を過ぎてしまって、なんだか家にいられなくなって映画を見に行った。見るつもりはなかったのだけれど新海誠の「すずめの戸締まり」です。
なんだかんだ新海誠の映画はインディーズのものから全て見ていて彼の奮闘が見れて楽しかった。

帰ってきて色々レビューや解説を見たけど、見方が浅い文章しか見当たらなくてイライラしてこの文章を書いている。押し付けるわけではないけれど、そう答えからは遠い見方でないだろうなと言うところを書きたい。
もちろんネタバレになります。

物語は主人公すずめの夢の中から始まる。この夢は後で明らかになるが、物語の自分の「役割」を示唆するものとして機能している。最近の流行りなのか家族や人間関係がテーマだと思う。もちろん監督なりの
震災後に生きる人間への寄り添いではあると思うのだが。

夢のあとすずめは「そうた」と「ダイジン」にであう。もうサラッと書いてしまうが、「ダイジン」は小さい頃のすずめの投影である。だからダイジンの切なさは必然で、悲しいがそこまで悲哀にくれたものではない。
あとで登場する「サダイジン」は名前の通り「ダイジン」の補佐でしかなく、物語の進行に必要な役者の穴を埋める存在だ。だから「サダイジン」は「タマキ」さんの心の内をあばいてしまう。
実は「タマキ」さんの心のうちは無自覚な「すずめ」の「ダイジン」に対する感情なのだが、「サダイジン」は本当に補佐でしか機能するつもりがないらしく笑、それ以上は明らかにしない。

つまり、たまきさんはすずめが邪魔、そしてすずめはダイジンが邪魔なのだ。

たまきさんもすずめも目の前のかわいそうな自分より小さな存在に「うちの子になる?」と聞いてしまう。しかし、完全にうちの子にすることはできないし、ある意味で邪魔な存在になってしまう。
「ダイジン」が「そうた」を排除してしまうのは本当は「すずめ」が「たまき」さんを独り占めしたい気持ちだし、「たまき」さんが「すずめ」に対し必要用意上に犠牲を払い過保護になるきもちだ。
「ダイジン」の神様だからと言い訳される自分勝手な振る舞いは全てたまきさんとすずめの人間関係にあるし、それが成立しないことも最後に「ダイジン」が示すとおりだ。

ダイジンのすずめの子になりたかったけど、なれなかったという小さな言葉はたまきさんに対するすずめの言葉だ。

そういう意味ではそうたなんてすずめが「とびたつ」きざしとしての役割しかないのでなんとも不憫だなあと感じがする。

主人公のすずめは「死ぬのが怖くない」ある種異常を抱えたな娘なのだが、最後に自分のルーツを取り戻し、あるいは自分の役目を思い出し、イスを自分の小さい頃のじぶんへ渡してしまう。
ダイジンも自分の役目に帰っていく。ダイジンの母親がサダイジンだったりすればうまく出来すぎなんだろうが、そんなのは表にする必要もないし関係ないだろう。

つまり何が言いたいかって言うと、だれもが大人になるときに親元を出て自分を認めてあげる必要がある。
いつまでも小さなイスを抱きしめていないで、イスを小さい頃の自分に変えて次に進もう。というわけだ。

今回、新海誠はテーマに関わる部分以外は結構雑な作りだったので、まだまだ力をためているという感じがした。天気の子を見たときはもう出がらしかなと思ったけど、まだまだ楽しめそうで嬉しい。

寝起きでいつもよりさらに雑な文章になってしまったが、今回も校正はせず読む人の努力に任せたい。

眠れないから最近あったこと

苦しいのは言語化出来ないから感情のやり場がなくて
悲しいのに、他人から言葉を要求されるともうなんに
もできなくてしまう。

この間、僕が思慮深いみたいに言われたけど、
言葉にできなくて黙っているだけなのに。
黙っていたり、言葉少なくしていると、勝手に頭良くしたり、
頭悪くしたり、他人は勝手だなあと思う。

最近は自分がもう少し賢かったらと思うことが多い。
こんなこと言うと弱気に思われたり、助言が必要に思われたり
するんだけれど、そうではなくて、「もっと賢くなりたい」
という事だ。相対的ではなく、絶対的に賢くなりたい。
賢くなれたらすべてをなげうってもいいかもしれない。

毎日機嫌よくて毎日賢くて毎日優しい人になりたい。
人に害をなすものに厳しくありたい。

諦観や絶望で「賢くなりたい」と言っているんじゃなくて、
筋トレするみたいにもっと賢くなりたいのだ。
僕の心は挑戦の心がらんらんとしているけれど
感情を隠す癖があって仕方ない。
だから感情表現が豊かな人に憧れがあって、眩しくて仕方ない。

ウエストサイドストーリーをみた

昨日、母親とウエストサイドストーリーをみた。僕は映画館でみていたけれど、母に自信を持っておすすめできる映画がとっさに出てこなくて、一緒にもう一度見た。
二度目なのに心に残るシーンがあった。母は途中で寝てしまって私だけが見てた。

母とは今日も遅くまで話した。母が言うには僕は運がいいらしい。「運がよいけれども苦労しないということではない」らしい。なんのこっちゃ。よくわからんけど運良く生んでくれてありがとう。

父とは昼間ずっと一緒にいて話した。普段気軽に話す相手があんまりいないみたいでたくさん話しかけてくれる。三日間話したけど、だいたい同じ話を五回ぐらいしたので眠くなってしまった。ごめん、殆ど聞いてなかったわ。

話を聞いてたら父も母も精一杯生きてきたように感じた。とりまく状況や環境がどんなでも親なりに精一杯だったらしい。もう70を迎えてすぎて二人は今から何をするのだろう。僕に手伝えることはあるんだろうか。

小さい頃、布団ではないところで寝てしまって親に布団まで運んでもらうのが好きだった。だからわざと布団じゃないところで寝て、あるいは寝たふりをして、運んでいってもらった。運んでいってもらう途中で目が覚めたりしてしまうのだけど、
起きると運んでもらえなくなるので、寝たふりをする。寝たふりをしながら、本当に眠たくなって寝る。

ウエストサイドストーリーをみたら、私はアメリカ人じゃなくプエルトリコ人だって泣いて言う女性が目に入った。

昔、窪塚洋介が好きでGOって映画をテープが擦り切れるほどみた。そのうち窪塚洋介よりも映画が好きになった。GOでも男性が同じようで違うセリフを言っていた。たしか、「私は韓国人でも日本人でもなくてただの根無し草」だって。GOはロミオとジュリエットがたくさんでてくるのだけど、このセリフはスペイン語だった。金城さんはウエストサイドストーリーもすきみたい。

僕は今日、母にこう言った「僕は父と母のもとに生まれたのは運命だと思うけど、姓のもとに生まれたり、この国のもとに生まれたのは偶然だと思う。だから、将来は違う国に住むかもしれないし、ぜんぜん違う姓になるかもしれない、ならないかもしれない。割とどうでもいい」と。
母は私も同じと言ったけど、外国はよくわからないから嫌だって言った。だから僕が外国に行ったら母にたくさん話そう。

いま世界中のどこにいても、眠りに落ちた子供が両親の愛に包まれていてほしい。それがお金や国境やつまらないおじさんの都合でだめになるのは嫌だ。

僕の小さい頃の夢の「研究者になる」はこの春に一応かなったけど、母は「諦めなかったから叶うということを教えてもらった」と言ったけど、僕はまだよくわかっていない。
父と母と話してひとまず僕は「誰に会っても賢いと言われる人」になることを目指そうと思う。

だから舐められたり、理解してもらえない事があってもそれは仕方ない、僕が賢くなるしかない。
必死に教えても理解できない学生がいてもそれは、僕が賢くないからだ。

色々書いてしまったけど、自由におもしろおかしく生きようと思う。

そういえば最近カレーや料理を作って人に配り歩いていたりする(料理はすごいぞ、美味しいものを作ったら人が笑顔になる、そうじゃないと凹むけど)のだけど、あげた人に「なんでくれるの?」と聞かれた。
僕は「美味しいものを食べたら元気もでるし、嫌なことがっても少しは頑張ろうって思わない?」と言ったら「変な人だね」と言われた。

僕はカレーを配ってるアメリカ人でもプエルトリコでも韓国人でも日本人でもないし、スペイン語も知らないだけれど、なんとなく日本語話せて、根無し草ってわけじゃなくて、変な人で、賢くなりたい人になった。あと、おとうさんとおかあさんのむすこです。
よろしくお願い致します。

本音を言えば

僕は岡山で育ったのだけど、いつかのドラマで「東京の空はいつも曇っている」ってセリフを聞いた。
僕は臭いセリフだなと思ったけど、18で上京して空を見たとき、たしかに空は毎日曇っていた、それもピンク色に。

昔、星が好きで地元の図書館で星の写真をたくさん見た。それこそある本を全部だ。本みたいな星空は見えないと思っていた。
初めての東京から帰省した夏に実家の庭から見上げた夜空には天の川が綺麗に流れていた。
僕は地元が嫌いだったけれど、星を好きにさせてくれたのも透き通る天高い空で育ててくれたのも地元だった。
東日本大震災のとき、計画停電の東京は星は綺麗だった。たくさん雨が降った次の日は東京でも空は青い。

そういえば、サンテックは新月の砂漠では星で影ができると言った。
太平洋をヨットで渡る冒険家は、新月の波のない凪の洋上では、海に星が浮かんで1面星だらけになるらしい。

僕は東京の夜空にそんな海外の海洋の美しさを思い浮かべることはできない。せいぜい嫌いだった地元の、実家の庭先の、夜空しか見えない。

小学生の頃、天体望遠鏡を買ってもらった。18になって両親は東京に持っていくかと聞いたけど、あれは地元にないと意味がないんだ。
ピンクの空で何を見るんだ。

サスティナブルとか、脱カーボンとか、SDGsとか、理屈はよくわからない。国が大きな声で節電をって呼びかけても何もピンとこない。

それよりも僕はピンク色の空を青く、灰色の夜空に天の川をかけてほしい。
今日見せてくれるなら給料の1%払ってもいい。