ファンタジーを見て思うこと

シン・エヴァンゲリオンを見てきた。小さい頃、家のブラウン管で見たアニメはIMAXに姿を変えて、スクリーンにそのイメージを投影されていた。

僕は最後のエヴァンゲリオンを見て、一つの大事な感想を得た。それはエヴァンゲリオンがきちんとしたファンタジーとして成立している事だ。あれはアニメーションだけれどその筋は戯曲に近いと思う。シンジ以外のキャラクター装置としての役者となっており、すべて意味のあるオブジェとして機能しているからだ。

庵野秀明がどう思うか自信はまるでないが、ファンタジーの原型はいくつかある。エヴァの場合、それはメーテルリンクの青い鳥だ。他にもドイツの海賊の心臓などの正当なファンタジーの流れに位置していていると気がつく。

シンジは公衆電話の前に現れ、その前の説明なく、エヴァンゲリオンを中心に物事が運ばれる。この運びを斬新だという人がいるが、それはアニメしか見てない人のセリフだろう。チルチルとミチルにとっての青い鳥、例えば、ファウスト博士にとってはメフィストフェレス、ジョバンニにとっての銀河鉄道なのだ。

シンジがネルフに来る前が語られないのは、エヴァンゲリオンを知る前だからだ。そして強くなったシンジはエヴァンゲリオンのいない世界へ帰っていく。

庵野秀明は野暮ったいことをしないので、現代の表現のつま先を使って盛大な夢オチを描いたのだろう。

私が強烈にファンタジーとはこれかと思う文章がある。荻原規子さんの樹上のゆりかごのあとがきだ。
> どんなに多くの卒業生が、アルバム写真を見て懐かしみ、どんなに詳細に語り合ったとしても、当時の写真には映らない、いつも取りこぼしてしまう何かが、あの場所にはあったと思えてならないのです。 
> 樹上のゆりかご あとがきより

これはノスタルジーというやつだ。言葉にできない見たことのない郷愁がファンタジーにはある。それは作り手が説明しても説明しても説明できない何かでできている。

エヴァンゲリオンははじめあえて説明せず、終わり、今回は説明して終わった。だけど、すでにエヴァンゲリオンにはノスタルジーをおびて、存在してしまった。庵野秀明の考えた「エヴァンゲリオン」は、人間の備わる想像力に根付いて存在する力を得たのだ。

名前は違っても誰かがまた見つける。それが嘘のような学園生活の話だったり、願いの叶う鳥だったり、見たことのない世界を見せる悪魔なのかもしれない。

ファンタジーが自然と郷愁を帯びて感じられるのは、それは誰もが一度は考えたことだからだ。そうでなければそれはただのフィクションでゲームでアトラクションにすぎないからだ。

寂しいけど卒業して次のステップに進もう。ふりかえって懐かしく感じ、嫌なことも楽しく振り返ることができるように。

良質なファンタジーは常に現実への出口を用意してくれているものだ。

これはファンタジーなんだよって教えてくれて、しかしその存在を消失しない。庵野秀明はアニメーションを進化させた。そのうち、俳優は声優となるんじゃないか。

そんなことを思いながら、私の青春の時間をエヴァの電車に乗せて保存してしまおう。

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