ほんとに良いものは触れた時にそれとわかる

いきなり話がそれるんだけど、日本語の”それ”は英語のitみたいにして使ったとき”それ”のさす内容が明確に感じられて普段見落としている”それ”の価値に気がつけるような感じしませんか?

この文章を書き始めたときに気がついたことがある。このブログはいつの間にか自分と向き合う時間となっていて、それってきっと多分、僕が寂しいときに書いているからだ。
文章にする作業って、文字に出してみて、目で見てみて、客観的に確認して、つまり自分にかまってもらってるんだと思う。

今回、僕が僕に提示したいことはちゃんと自分は他人に触ってもらえているのか?ってことだ。
いや、少し違う。正確にはきちんと自分自身を評価の場に出しているのかってことだ。
多分僕は出していない。多分っていうか全然出していない。

僕はケーキが好きなんだけど、ケーキって見るだけのものじゃなくて食べるものだから食べてみないとそれが良いのかそうでないのか、全然わからない。前に、僕が「良い」「悪い」といった時に理由がないから意味がないと言われたことがあった。それに対する僕の答え(その時は黙っていたけれど)はこうだ。僕の感想は誰かに理解してもらうことを前提としていないのだからあなたが理解できなくても意味はあるのだ。そして僕は大抵のコミュニケーションにける”理由”は後付けだと思っている。

つまり、僕はケーキを食べた時に美味しいと思って『このケーキは良いものだ』と思う。だけど、はじめその理由はわからないのだ。そしてわからなくていいのだ。なんだかわからないけど、美味しくて、良いと感じる。真実は理由があって結果に至るのかもしれないが、僕に理解できるのは結果だけ、目の前のケーキが美味しいってことだけだ。そしてそのケーキが良いものだって思うのだ。

物事の評価は正しい手順で触ってみて(ケーキの場合は見て匂って食べて)初めてそれが「良い」か「悪いか」わかる。よくある後付の理由は例えばこうだ。”いちごが入っているから”、”甘すぎないから”、”スポンジがふっくらしているから”などなど、だけど、ケーキを分解してもケーキは見つからないんだ。分解して特徴を抽出してもそれはわかったことにならない。理由を言葉で提示してもだめだ。あえて、ケーキが良いとわかったのに理由があるなら、それは食べたからだ。それ以外にない。食べたから良いとわかる。良いかどうか理由がないとわからないというのは食べてないからだ。

そして、僕は自分の料理を誰かに食べてもらって、自分の思った”言葉にできない「良い」”を”他者の「良い」”と共有する事はあっても、自分をそのまま出して、触れてもらうことはしてきていない。自分でも自分をきちんと取り扱って触れていないし、だから、それが良いか悪いか、まるでわかっていない。

だけど、人間の触り方は誰が知っているんだろう。ケーキは食べるものだ。もちろん匂ったり、目で見て楽しんだりしていい。他には例えば薬は飲むものだ。飲んで効果が出て良いか悪いかわかる。服も着てみて初めて良いか悪いかわかる。

だけど、人間はどうなんだ?そもそも他人をどうすればいいんだろう。コミニュケーションを取ってみればいいのか、どうやって取ればいいのか、ルールは誰が決めたんだろう。立ち返って、僕は僕を置いたコミュニケーションを取れていないんだきっと。

自分をながめてみて「良い」とも「悪い」とも思えない。そもそも触っているのかいないのかそれさえわからない。

自分の知らない自分がじっと自分を見ているような気持ちの悪い感覚がする。誰か触ってみて教えて。

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「超絶技巧を超えて 吉村芳生展」を見た

超絶技巧を超えて 吉村芳生展を見てきました。
展示自体は場所を変えて何度か行われているようなのですが、私が見たのは横浜駅のそごうに入っているやつです。スペースの関係かリスト順に並んでいないのが残念でしたが、もしかすると意図のあることなのかもしれません。限られたスペースでできる限りの展示を工夫して行っている―、そんな印象はありました。
久しぶりに、心に残った展示だったので色々調べたり、レビューなどをネット記事で読んでみたのですが「超絶技巧すごい!」に終始しているものが多くて、私の感じたものの共感があまりなかったので詳細な感想を書きたいと思ったのです。そんな訳でこの文章は私の極めて私的な感想なのですが、共感いただければ嬉しいです。

展示自体はよく考えられていて無駄なところのないように思いました。この展示のテーマの”超絶技巧を超えて”を意図しているドローイングをいくつか挟みながら作品を並べてくれているので、きちんと順に見ていけば、”超絶技巧を超えた先”を感じられました。
前半は自分自身をプリンターや写真機にするような途方もない”超絶技法の吉村芳生”が語れていきます。彼は直感やセンスなどというもの立脚せず、実に機械的で作業的に自己のスタイル確立していったようです。この彼のスタイルは早くからすでに方針が決まっていて、”この先”を示すことが、”自画像”と”花を書くこと”によって収束されていきます。展示のストーリーは「徳地・冬の幻影」を指す事によって”この先”へと進んでいきます。
そもそも、彼のスタイルでは制作の前に写真があります。現実を一度切り取ったはずの写真に”超絶技巧”を持ってのぞみ、写真ではないものを指そうとしているわけです。それはいくら金網をかいても殺せない彼自身であったと私は思いました。表現のスタイルに準じてあえて型を作り、そして型を崩していくようなことでしょうか。

“自画像”は新聞の上に(あるいは共に)書く事によって単なる新聞の情報の先を教えてくれます。息子さんのアドバイスによって自画像も花の様に雄弁になっていきます。”花を書くこと”についてはもう少し明確に、水面に映したものを主役にするなど、”写す”や”映す”事によって別の世界を示してたようです。ヒマワリの絵は特徴的で、写す事によって自分を指しているのですから、仏頂面だった自画像よりも気に入っていたのかなどと考えてしまいます。

それで私の感想なのですが、絶筆となったコスモスの絵に、その右の空白に、吉村芳生さんの魂を見ました。生き生きとあるいはもの悲しく花に映されていく人々の魂と違い、真っ白な紙に吉村芳生さんの魂を見ることで、悲しさよりもこの人を写す人はまだいないのかと感じました。
また、結果的に吉村芳生さん見たコスモスではなくて、吉村芳生さんの魂が見えてしまうことに芸術家のずるさを感じました。魂がこもった作品が作れるなんてずるい。

とても良い展示だったので横浜でデートの折にでも足を運んでみてください。

*普段は未編集なのですが、誤字脱字がひどかったので編集を行いました。

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死んだり、生まれたりすること

いま電車でフルハウスの「金魚はお風呂好き?」を見てた。
ミシェルがお祭りで金魚を貰ってくるんだけど、金魚をお風呂にいれて死なせてしまう。そこでダニーが物理的にはまだそこにいるけど、本質的にはあちこちにいるんだ。と言う。ミシェルが自分のせいで死んだとわかると落ち込んでしまったので、ダニーが新しい金魚を買ってくる。失敗から遠巻きに金魚を見守るミシェルだったが、金魚が赤ちゃんを生んでいることに気がつく。そこでミシェルは赤ちゃんはどこからくるの?と聞いてみんな逃げていってしまう。
ミシェルは死ぬことがあちこちに行くと聞いたから赤ちゃんはどこかから来ると思ったのだろうか。
死んだ金魚が動き出すのを待っていたミシェルは赤ちゃんもそこに居たと思っていたんだろうか。
そして、大人は死んだらどこに行くか分からないのに赤ちゃんは自分が作ったと思っているのだろうか

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アルプススタンドのはしの方 を観た

映画は心の中のまだ真っ白な、僕の知らない場所にやってきて、知らない地上絵を描いて、どこかに去っていった。

昨日、「アルプススタンドのはしの方」を見てきた。最近テレワークだから家から逃げ出したくて映画館に行ったのだ。あと、一人になりたかったからだ。一人暮らしだからといっても、パソコンの前に座って気がつくと誰かとやり取りしている。僕はひとりになりたかったのだ。

だから映画館に行って映画を見てきた。見たい映画がなくて適当に選んで観た。大体70分間の映画を見た感想だ。簡単に言えばいい映画だった。難しく言えば心残りがあるようなそういう映画だった。

登場人物が美男美女であること除けば、どこにでも居そうな4人が端っこにたむろして話している。そういう映画だ。舞台は野球場のアルプススタンドなんだけど、それは実は関係ない。僕は脚本を書いた人はきっと学生の頃、野球がやりたかった人なんだなと思う。そんなやりたかったもののすみっこが舞台の映画だ。

「君の人生の主役は君自身なんだ」というセンテンスを聞いたことがあるかもしれない。クサイセリフだ。だけど、ちらと期待してしまうセリフだ。

長く人生のすみにいると感じていると、私だけ、自分だけ、すみっこにいると思うだろう。だけど円の真ん中はすみっこより小さい。すみっこのほうがたくさんの人がいる。すみっこで不幸だと思うのは、実は、不幸だなと思う人がすみっこにやってくるからであって、すみっこにも主人公たちがたくさんいる。

すみっこの主人公たちは複雑だ。みんなすみっこにやってくる理由を抱えている。

物語ではすみっこにいる理由と向き合って結論は出なくても、ひとりひとりの自分と向き合っていった結果というか過程が示される。だけど、「なんかやっぱりすみっこがいいんだよね」と言う。前を向くと言う事は自分を変えるとではない。自分という性質は変わらない。性質を前に向けるだけだ。すみっこならすみっこででしかでないことがある。そういうことだ。

映画を見たあと、少し寂しさが残った。

私にはもう二度とたどり着けないようなそんな気がした。映画を見たときの高揚が薄れ、つまらない現実に戻った気がした。私も今の場所をつまらないと感じているんだろう、わたしも今の「すみっこ」がいいなと思えるまでがんばってみよう。

そうだ、僕は自分のこと好きになりかけているのだ。

*サブタイトルに逆らって修正を行いました。

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「アイスと雨音」を観た。

この間お知り合いになった方に進められた映画を観た。”アイスと雨音”とタイトルされたその映画は、調べてみると少し話題だったようだ。話題性は74分ワンカットの映画だということと、実話をベースにしていること、劇中劇の構造、役者の熱量がすごいなんてことのようだ。
この映画を見た人にはこの話題性以外に魅力がなかったなんてコメントをを残している方もいるんだけど、私の感想はちょっと違う。

私は映画を見るときにまず内側から見る。たしかに外側の情報は大事だけれど、一度頭に残っている外側の情報をすべて消し去って内側から見るようにしている。世間の評判にしているところは外側の問題だ。例えば、文学の話で、”純文学って何?”って思って調べてみると、芸術性を重んじて話の内容は二の次のような説明も見かける。果たしてこの映画もそのように受け取られるのではないか、と危惧してしまった。
私は純文学の芸術性は言語本来の伝えたいと欲求から始まると思っているし、それは映画も同じだ。伝えたいことが空っぽな作品だってもちろんあるのだが。

この映画の指している”言いたいこと”は端的にMOROHAさんによってはじめに語られる。”なんで俺は、なんでお前は今にも消えそうな感情に必死にしがみつこうとしてるんだ(?)”これが映画全体の主題だ。
しかも回答を持っている人が見たら反語になっていて、そうでない人が見たらメッセージと受けるような構成になっている。寄り道をすると、劇中劇も良くできていて作中役者のテンションに合わせて切り取られたシーンが時系列にそって演じられて厳密に区切られないことで74分の中に俳句のダブルミーニングのような効果で二重三重のメッセージを出そうとしている。

重要なシーンが有る。アイスと、雨音が出てくる場面だ。人間以外の役者で重要な意味を持つのは本多劇場以外ではこの2つしかない。主人公の女の子は仲間の女の子とともにアイスを食べながら歩く。ここで恋愛の話になり、プライベートな一面が明かされる。アイスクリームが主人公から役者を取り上げてしまうのだ。アイスが終盤になると、「甘い花の香がする」と言って一人掛けだしてしまう。しかし、仲間に引き戻されて、劇中劇になり、雨音への言及がある。雨音が好きだというのは劇中劇から現実へオーバーラップして語られ、役者としての自分を取り戻したことが暗に示される。

はじめ、鬱々とした役者として語られた主人公は、アイスによって裸にされ、雨音によって役者になる。このシーンのあとは急に生き生きとしだして表情も豊かになり、物語全体のテンポも上がる。

つまり、アイスと雨音はニック・オブ・タイム、「花の香がする世界」との運命の分かれ道だったわけだ。私は、この”消えそうな感情にしがみついている”主人公が愛おしい。ギリギリのラインでフラフラしながらやりたいことをやって成長しても観てくれる人がいないこの劇は懸命に映画として作り直されても「話題性以外に魅力がない」などと言われてしまうのだ。

でもそれはきっと正しい。

私はこの映画を正しく評価できる人には同じ後ろめたさが存在していて、しかもそれを認められる人なのではないかと思う。

そしてそういう人前に出せないストレスを現代人は抱えていて、それを認められない人は社会的には正しい存在だ、花の香につれられてフラフラ遊んでいる方が正しいのだ。

だからは私は変わっていく社会の姿を観てみたい。

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池の鯉

いま大学には人が居ないのだけれど、研究のために許可をとって理工学部棟に行く。
お昼休みには昼食を取るのだけれど、少し時間があると散歩することにしている。最近は大学に入れる特権を少しだけ散歩の為に使わせてもらっている。

私の大学には大きな池があって、おっきい鯉がたくさんいる。彼らは上品というよりもたくましい方で、少し近寄ると近づいてきてエサをねだってくる。

パンのかけらを投げてみると1,2匹しか食べることができないのに20匹も30匹も群がってきて、一時の興奮のときがすぎると次のパンを待っている。

私は例えば、新宿南口の歩道橋からお金をばら撒いたら人間もこうなるのだろうかと考えた。するとたちまち気持ち悪いのは鯉ではなくて人間なのではないのかという気がして気持ち悪くなった。

だけどおもいなおした。多分人間は鯉みたいな人も居るけれど、そうじゃない人も居る。また、もっと酷いのもいるだろう。鯉はおんなじなのに人間は多分ちょっとちがうのだ。

歩きながら、人間のことを考えた。多分、鯉よりももっと気持ち悪く群がる人も、無視する人も、怖がって近寄らない人も、迷惑をかけたと怒る人も居るだろうな。お金を返したいという人もいるかもしれない。

それが全部人間に詰まってるんだ。

そう思うと、頭の後ろがジンとして、歩き始めた足を止めてもう少し考えた。

いつも僕に怒っているあの人も、いつもいじわるをしてくる人も、権力やお金を自分の物だと勘違いする人も、みんな良い所のある人なんだ。全部が詰まっている人間を鯉の様に思ってしまっている方が気持ち悪かった。

鯉にはいつもパンを食べてもらっているけど、今日はパンのお返しをもらった気分でした。

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だらだらテレビを見ている

いまテレビでしているレトロ自販機の話、経営者の斎藤さんは古くなった自販機を修理し、一箇所に集めて自販機の楽園を作っているそうだ。駄菓子やラーメン、味噌汁などの販売機があり賑わっていた様子。
そんな中、子供が「自販機の中に人がいて〜」と遊んでいた。ナレーションで大人が「子供は想像力がたくましくて」と言っていた。
しかし、自販機の中に人がいると自販機を知らない人はそう思うのではないだろうか、私はごく自然な発想だと思う。「自販機の中に人がいる説」ははじめに思う自然な発想だ。それがおかしいと思う大人がおかしいのだと一人考えを飛ばしていると、テレビではコロナの影響で子供が休みになり、パートが雇えずに売り切れになっていると。斎藤さんが一人で黙々とラーメンを用意する様子が映されていた。

私はハッとした。

テレビにはそのまま「自販機の中の人」が写っていた。私もつまらない大人だと言われたような気がした。そうだ、自販機の中には「人」が宿っている。本質を捉える目は元々具わっているのだ。
子供は頭がいいなあ。

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自由に生きたい

上手に言葉に出来ないけれど、もっと自由に生きたい。

距離とか、お金とか、そういう物理的なことではなくて精神とか心の話だ。
今なにかに抑圧されているわけではない。だけど、自分らしさがわからない。今まで僕は自分らしく生きてきたつもりだった。実際に目の前に夢中になれるものがあって没頭していれば自分らしくいられた。
だけど、それは本当の自分らしさなんだろうか、どうやら僕は自分というものをもう一度見直す必要があるんだと思う。
「僕らしさ」というもの(個性って言えばそれまでだけど、最近は熟語が切り取った固定的な静かな存在みたいで苦手だ。和語にすると躍動感が感じられるのは僕だけですか?)の意味が変わってしまったのかもしれない。僕は慎重な性格で他人に気を使うことが多い。本当はこうしたい、ああしたい、ということがあっても僕は無意識に妥協して人に合わせてしまうのだけど、これ自体に良いとか悪いとかじゃないと思ってる。問題は僕が本当にやりたいことをそのままやってしまって良いのか自信がないということだ。今、「僕らしさ」は急速に過ぎ去っていこうとしている。僕は、人は、ずっと「僕」のままではいられないから新しい僕が必要になっているのだ。

妥協ではないけれど、相談することも増えた。それも相談する前にもうほとんど最適な回答が得られているのにもかかわらずに、である。
今まではそれで良かったのだ。1割でも5%でも発見があった。誤解しないで欲しいのだけど、他者から得られるものがなくなったわけじゃない。だけど、自分で試してみたいという欲求がどんどん強くなってきていて誰かのまねだけでは満足できなくなってきている。今までのやり方では「僕らしさ」が死んでしまう。これは生き方の問題だ。
どこかで変えなくちゃいけない。今のままではどんどん死んでいってしまう。今の生活が不満なわけではない、むしろ恵まれている。だけど、失敗しても良い、「僕らしい」生き方ができればそれでいい。
孔子は「七十にして心の欲する所に従えども、のりを踰こえず」と言っているが、僕は七十まで待てない。わがままで言っているのではない。僕の手本は孔子ではないというだけだ。
学ぶということの本質は他者のまねだけれど、もう真似る段階ではないんだ。先の見えない中であがいていくしかない。
僕には大切な人たちがいてよかった。友達や恋人、家族なんかには無条件で甘えられる。具体的に何かをしてもらうわけではないけれど、存在を認めてもらって甘えているんだと思う。

そうだ、僕を抑圧しているのは他者ではない、社会ではない、僕自身なのだ。

恐ろしいことに僕は僕を抑圧しているんだ。もっと自分を自由に遊ばせていいのに、心を広々と放してしまってもいいのに、それができないのだ。僕はもっと自由な自分へ変わりたくなったのだ。
できることだけこなしているのは人間じゃない。僕は自分にできないことをやってみたくなった。

多分少し長い時間がかかるけど、気がついてしまったら今のままじゃだめだ。まだまだ自分に投資して僕を育てていくことに必要なことはたくさんあるけれど、文章にするとほんの少し自由になれた気がする。
文章の力は偉大だ。

僕という存在をを写し取っているはずなのに、すぐに写し取れない存在が顔を出す。

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ZARDを聞いている

 不眠気味で録画しているテレビを見ていた。早見あかりがモモクロ代表で出ていた、ダウンタウンDXだ。いつまでモモクロなんだろうと疑問に思いながら悶々と過ごし、研究と仕事のことを考えていた。明日は研究補佐員の仕事で打ち合わせがあって滞りがちなプロジェクトの報告とスケジュールを引く必要がある。そのプロジェクトでは外部の作業員が多くいて、一番給料が安く年若い僕がアカデミックなので意味のあるデータなのかの確認やテストを行う事になった。学校から帰る前に打ち合わせ用のドキュメントを用意したが、スケージュールは過密になるだろう。そんなことを考えていたらテレビなんか見ていなかったのに曲が耳に入ってきた。ポカリのCMだ。ZARDだ、坂井さんだ。

 ZARDがデビューした頃、僕は小学生だ。世間は阪神淡路大震災で暗いニュースが多かった。特にファンではなかったが、どこでもZARDは流れてた。誰でも知っていた。
ZARDの曲を聞くと思い出がダ~っと流れ出す。大半はどうでもいいことばかりだ。
兄のゲームボーイを後ろから覗いて怒られたとか、姉の部屋の絨毯にボンドをこぼしたとか。お母さんとかき氷を一緒に食べたとか、そういうのだ。

 僕は高校受験に失敗して高校でたくさん勉強した。本当にたくさんだ、友達が帰ろう帰ろうと言っても無視して教室で放課後に一人で勉強した。その時もZARDの曲を出たばかりの無理して買った128MBのデジタルオーディオプレーヤー入て聞いていた。担任にそんな物高級だから持ってきてはいけませんと言われたのだ。当時から坂井さんは可愛くて、でもテレビには出なくて、ネットもそんなに見ない時代で、ZARDの歌っている人が可愛いなんてそんな事考えたこともなかった。それくらい自然だった。

 僕は大学に合格して、しばらくして麻疹が大流行して1ヶ月ほど休みになり、その間だったろうか坂井さんが亡くなったニュースを知ったのだろう、休校明けの授業で教授が「人を励まし続けた方がなくなりましたね、坂井さんです。」と覚えている。大教室の授業でソフトパワーとハードパワーを世界情勢から読み解くと言った内容だったと記憶している。当時は楽しいことややりたいことがたくさんあって、でも時間はたっぷりあったのに、あまり深く感じることがなかった。今から思い出すと人間として未熟だったのだと思う。だけど、やはりびっくりするほど明確に思い出せる。今、振り返って僕はZARDが好きなんだろうと思う。

 今日は、もうこんな時間だ。今日は遅刻できない。僕が18の頃はいくら遅くまで起きていても朝走って登校できたし、集中して勉強できたのに感じ入ることはできなかった。今は噛み締めたい思いがいっぱいあるのにもうそこまで楽しめる時間がない。

 坂井さんの歌を聞くと今でも励まされる。ごく自然に気がつくことも少なくに。僕の好きな小説に「平易な言葉を使えますね、文章の才能がありますよ」というものがある。専門用語に忙殺されそうになるけれど、平凡な言葉なのに新しさがあって身近さがあってゼロ距離で自然の生身さが好きだ。僕はファンじゃないけれど、まだ歌を聞いています。

 僕も平凡な言葉で声や文を見て聞いて読んでくれる人に励ましを送ったりしたい。自分の好きな人が元気になってほしい。

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無題

悔しいことがあった。

力がないから正しいことが伝わらなかった。

人の汚いところを見た。自分のミスを立場の弱い人に押し付けて追求すると興奮して20分に渡り一方的に喋り続けた。

僕は絶対にああはならない。なりたくない。自分の仕事に真摯で誠実で他人を大切にしたい。けれども、謝り方も忘れるような、そんな恩も忘れるような優しい人間を利用するような人間を僕は絶対許さない。

許して、なあなあにして、弱い人の味方になるのを恐れるようなそんな人間には絶対にならない。

表面上は泣き寝入りでも精神的に負けてなるものか。

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