目に見えるものとそこにあるもの

わかりにくいタイトルで申し訳ない。

友人から指摘を受けて目からウロコが落ちたことがある。
それは「言語は比喩である。」と言った言葉だ。この言葉が真であるかは議論をさておいて、僕の感動を伝えたいと思う。その前にタイトルの意味を。

言葉は意味を持つ。これは私の信念であるが、一方で、冷静にただの文字列だと思う冷静な自分もいる。ここで実体というものを仮定したい。実体とは存在そのものと雑に定義しよう。実体を把握すると「目に見えるもの」となり、目に見えないものまでカバーするとあやふやな存在を認め「そこにあるもの」と言える。ここでは実際に目に見えなくても赤外線でもいい、想像でもいい、把握、認識できるものとしよう。

「そこにあるもの」は実際にあるものでもないものでも存在として認めることとしよう。普段我々が言葉で指しているものは厳密には「そこにないもの」だ。近似しているにすぎない。だが、「そこにないもの」でも実際にない「存在」であれば、それは比喩による産物ではないと思っていた。例えば空想上の存在を言葉で定義してしまえば、「そこにあるもの」=「目に見えるもの」が成立する。

だが、友人は「言語は比喩である。」と言った。たとえ話とでも言えるだろうか、であるならば人類は2つの主義に別れるはずだ。

一つは実際にある「そこにあるもの」を何一つ真に知る事ができないという主義。
もう一つは「そこにあるもの」を普段は意識しないがもう知っている(または知る能力を持っている)とする主義だ。

前者と後者の主張は論理的に同価値であるといえる。そしてこの主張はおそらく論理構造を大きく変える価値はないだろう。だが、言葉で紡がれる「そこにあるもの」の意味を大きく変えてしまう。どちらかの主義を選択したその瞬間にそれまであやふやにしていた世界の意味が大きく変質するはずだ。

私は後者の主義を取りたい。なれば、「知る」ことはすでに自分という外郭を広げる行為だ。目の前においてあるりんごは「りんご」という文字列のみならず、その存在は自分の存在とは異なっていても自分の右手とかわらない価値を持つ。

他人の気持ちを知るということはきっとそういうことなのだろう。

この文章はもっと整理して、大幅に書き足して、きちんとした文章にしたい。

多分こんな感じ
図1

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