無題

頭がいいと言われても僕にはそれは不十分で中途半端で何も満たしてくれない。

私にはコンプレックスがある。まぶたの一重と鼻の低さと、あとは、できの悪さだ。そう、僕はできが悪いのだ。
他にもある。昔から足が早くなりたかった。でも早く走れない。小学3年生のときに友達を亡くして、遅くなった。50m走で1秒遅くしてしまった。僕には決定的な出来事だった。
小学生の頃、持久走も走り幅跳びもやったけど、地区大会がせいぜいだった。中学では柔道をやっていた。試合では一回も勝てなかった。勝ちたいという執念がないと言われた。

最終的に僕が憧れた職業があった。それは研究者だ。

はじめは数学者だった。紙とペンで科学をリードする彼らは僕の羨望の的だった。彼らの人間性のアンバランスさにも惚れたし、不可解な生き方に憧れた。ガロアやラマヌジュンの人生を調べて悦に入ったりした。
僕は研究者を目指すことにした。が、勉強の出来はごく普通だったと思う。ただ、結論に至るセンスは他と違っていたと思う。僕が他人と決定的に違うのはそれだ。

数学者ではなくなってしまったけど、今僕は研究者を目指している。

いま、カンファレンスに出れば有名大学の教授の発表を聞くことができるし、自分の研究の相談も乗ってくれる。大学の同期が大学教員になっているし、研究話やまつわるよもやま話もできる。
一方で、僕よりセンスのない先輩が学位をとって研究者なっている。いま僕が必要なのはセンスでも頭の良さでも何でもなく適性なのだと思う。

大学で走るのが速い同期がいた。そいつが走るとドキドキしたし、感動した。でも本人と話したらままならないことが多かったようだった。同期の大学教員も同様でなにか自分の目標との不一致を解消しようとして模索しているようだった。同じようなケースなのだろうか、最近、僕は前にもまして「頭がいい」と言われることが増えた。アカデミックな場でも言ってもらえる。だけど、その言葉をどう受け止めればいいのだろうか、その頭の良さはできの悪さと引き換えにしてしまったのではないか。しかも残念なことに、僕のセンスはどうやら突き抜けそうにないし、それだけを評価してくれる舞台はどうやらなさそうだ。

僕はいま、「頭がいい」自分と卒業が遅れている身分ともてあましたセンスとで、宙に浮いている。

何故浮いているのか、ほしい評価が得られないからだ。僕のほしい評価が得られないままで有頂天になれないからだ。その点で僕は絶望してしまっている。絶望して逃げているのだろうか。

自分は有頂天になれないからすねてしまうようなつまらない人間だったのか。

ある問題で、ディスカッションをする。僕が問題提起をする場合、序の口で「なぜ?」と入る、丁寧に説明をして「そんな切り口があるとは思わなかった、頭がいいね」と言われる。結局、問題意識や、問題の共有はできずに終わってしまう。僕のセンスの結晶は誰に評価してもらえるのだろう。誰と共有できるのだろう。僕は末っ子で相手にしてくれる大人は多かった。話は聞いてくれた。だけど、話を聞いてくれる分だけ「何を考えているかわからない」と言われた。場所を変えて、アカデミックに行っても同じだ。理解はしても評価はくれない。興味はくれない。

簡単だ、自分の独自な性質だからだ。自分で完成するしかないのだ。完成品を出して使ってもらうしかない。

こんな救いのない文章を書きたくなったのは、切なさや、感傷に浸って自分の目標を失わないためだ。郷愁や陳腐な代替物で満足しないためだ。

他人にどう思われてもいい、僕は自分を満足させたい。幼いままの出来の悪かった自分を褒めてあげたい。

2件のコメント

  1.  あなたの文章はいつも素敵で、読んでいて面白いです。きっとそれは文章の裏側の表情や心情が手に取れるような文を書くからで、けれど私にはわかるようでわからない。だからか何度も読みたくなります。

     この文章を読んで、ひとつ気になることがありました。あなたにとってのディスカッションとは、話の内容や理屈がまかり通っていることより、互いの「センス」を共有するもの、知りたいし知ってもらいたいものなのだと感じました。その中で「センス」を評価される段階以前に、「頭がいい」とある種のコミュニケーションの放棄をされてしまうという寂しさを感じている。そして自身で完成するしかないと書いている。

     たとえば、このブログはどうでしょう。自身のために自慰的に書いていると言われたらそれ以上は何も言えませんが、私にはそうは見えません。このブログも見る人によっては「頭がいいですね」と済まされる内容なのかもしれませんが、自分を評価してくれる人がいるのではないかと期待しているのではないと感じます。

     それから、何度もこの記事を読ませていただきました。ただ、私は最初に書いた通り「わかるようでわからない」ので素っ頓狂なことが書いてあるな、と感じたらそれはごめんなさい。

     また、敬意を示して私もこのコメントに推敲はしておりません。また更新することを楽しみにしております。

    1.  コメントを下さってありがとうございます。このブログは僕の頭の整理や忘備録としての側面が強いのですが、公開しているのは「誰かに読んで欲しい」という欲求の現れだと思います。また、コメントの公開、返信にあたり、気恥ずかしい部分もあったので、コメントに若干の編集と削除を加えてあります。文脈が変わっていなければいいのですがご容赦ください。コメントを付けにくいブログであることは承知しているつもりなので、コメントを下さることは本当に嬉しいです。

       さて、あなたが気にしてくださった部分ですが、確かに僕は自分を評価してくれる人が欲しいのだと感じています。ですが、相違があるのは、それは現実の自分の仕事に対してです。あなたを始めとしたブログを読んでくれている奇特な方々に対しては、評価ではなくて、ただ認めて欲しいのだと感じています。評価といえば点数をつける行為です。僕はこのブログに関して言えば100パーセントの意味で評価を望んでいるのではなくて、読んで、認めて、大事にしてほしいのです。ですから、頂いたコメントの内容は大事にしようと思いました。

       話は逸れますが、物事を綴るには作られたストーリーと心情をありのままに書くような文章があります。前者は教科書や、小説、解説書などもそうです。後者は随筆、フランクに言えばエッセイでしょう。コメントを読んで自覚するに至りましたが、このブログはエッセイと呼べるものです。僕が僕なりに徒然に思ったまま書いた文章になります。ですから、僕の感情ができるだけ生のまま保存するように(時には僕以外が理解できなくても)書いてあります。

       あなたの言う「わかるようでわからない」は恐らくブログを読んでいただいて浮かんだイメージがうまく文章化できないところにあると思います。僕は簡単に言い替えの効く文章には個性がないと感じているので、あなたが浮かんだイメージを再現する際に”読み直そう”と思っていただけたのなら望外の喜びです。

       少し長くなりましたが、また読んでいただけたら嬉しいです。

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