最近のテーマです。
僕は他人の成績や頭の良さに嫉妬したことがないのだが、他人の頭に嫉妬するのは自分の頭に不満やコンプレックスを抱いているからではないだろうか。
”頭の良さ”は何が原因で決まるのか、頭の良さは身体的な特徴ではない。
ほとんどの人間の脳の重さは同じで、脳に損傷を受けている方でも”頭がいい”とされる人も多いからだ。では、教育の問題だろうか。重要な視点ではあるが、社会のようなグループではなく、自分という個人を考えると、選択できない与えられる教育に考えを馳せてもあまり役に立たない。それに、同じ学校の先生でも、同じ両親でも、頭の良し悪しに差はできるので最大の原因とはいえない。
生まれつき頭の悪い人間は存在しないということだ。
最大の原因はなにかー、僕は意識の差だと思う。
僕には決め事がある。それは、「頭いいんですか?」と聞かれると、「頭は良いほうです!」と返すことだ。
”頭の良さを”を評価するのは他人と自分である。実際に頭の良さを測る物差しなんてないわけだから、他人に評価されないうちは(他人が自分の脳みそに興味を持ってくれないうちは)自己評価で自分の値打ちが決まるといって良い。
もちろん、過大評価になってはいけないが、 自分は頭が良いところがいくつかある この認識をより多く持てる人が本当に賢くなっていく。自分が次の自分を決め、個性を作っていく。
「趣味は何ですか?」「得意なものは何ですか?」と聞かれると、自分より得意な人は大勢いるし、趣味と言えるまで好きじゃないし、とか、頭にブレーキがかかる人が大勢いると思う。これはコンプレックスといって良い。”どうせ自分より優秀な人はいるのだ”というコンプレックスだ。それは初めは謙虚なつもりでも何かのきかっけで、愚痴になり、嫉妬になり、最終的に「自分はできないんだ」という絶望とあきらめに代わる。
本来、「好き」や「得意」な事は自分が感じているだ。他人の目線を感じ、自分を卑下することが自分の脳みそに一番の悪影響を与え、成長する機会を奪っていく。素直に自分の趣味趣向を認められる人が、自分の「好き」や「得意」に、詳しくなっていくのは当然であるし、気が付けばマニアックな領域に入っていくと思う。僕が考える”頭がいい”とはこれである。頭にブレーキをかける人に”頭の良さ”は絶対に来ない。”頭がいい”人には専門分野というか、自分の領域を持っていて、自分のこだわりの上で一番の賢さをそなえていく。これが自信であり個性であると僕は思う。
”頭の良い”人には(僕は頭が良いのでわかるのだが)人間が立体的に見える。見た目(身体的特徴)には表れない人間の凹凸(意識の差)が感じられるはずだ。なぜなら”頭がいい”人がそうだからである。
もうすでに時代は、個性豊かになってきました。特に若い世代は世代論ではくくれないほど多様な内面世界を抱えている人たちであふれています。どうか、責任ある世を動かしている人々には、これが「”頭がいい”人になりたい運動」の前触れだと気が付いてほしい。
そして、意識を持ち始めた人間に「バカだ」とブレーキのスイッチを押さえつけるようなことは控えてくれると嬉しい。その分だけ世界が賢くなっていく。
この記事は2015年12月06日に文章校正を行いました。元記事のリンクはこちら。
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