文章を書くということ

私にとって、文章を書くということは少し特殊な行為だ。

基本的に私は娯楽消費者である。世の中のいろいろな角度からたくさんの数の考え方、感じ方に、埋もれて生きていると幸せだと感じるたぐいの人間である。だけれども、その誰かの感情に、あるいは、思想に、ない自分を見つけた時に文章を書きたくたくなる。

文章を書くという時、特にこのような文章を書くとき、伝える相手は宙に浮いてしまって自分の中にしかいない。だけれども、この大変に私的文章を読んでほしい、自分の感じたことで、誰でもいいから影響を与えたい。これは無くしたくないといった場合に限って、私は文章を書く。

だから私の文章の内容はきっと他人と違っているんだと思う。そして、日記としてはすごく平凡なのだ。

誰も同じことを好んで文章にはしないだろう。だから私には文章と向き合うことが必要なのだ。50音から始まり単語と単語、単語の意味、文法的に正しいかどうか、時に文法として逸脱しても表現として認められる感情の発露が必要だった。

私が他人と声に出してはけして言えないことが文章でなら説明できる。
声に出しては薄っぺらくそしてすぐ消えてしまう残響も文章にすると写真のように切り取ることができる。保存できる。

声に出したら「時間の無駄」だとか、「変なこと考えているんだね」とか「難しい」と言われることが文章にするとなんだか綺麗だ。

私は娯楽消費者である。だけれどもそれだけでは悲しい。私は音楽ができなかったので、文章を書いているのだ。コンピューターが見れば、ユニコードの記号の文字列でしかないものの中に意味と価値を認めているのだと思う。

文章の力は2進数の数字に価値を与えていることになる。
文字列の中に自分の分身を密かに隠す行為なのだ。

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