個性ということ

共感は嬉しい。どうやらこの感情は地球上の常識であるようだ。例えば、日本人写真家がアフリカの裸族に混じって裸になると熱烈な歓迎を受けたらしい。
自分と同じ、それは喜ばしいものだろう。

対極にあるものが”みんなと違う”ということである。”みんなと違う”ということは取り扱いが難しい。”私は周りの人と違いますよ”というわかりやすいタグが付いていても(たとえば肌の色や両足がないとか)理解されないことがあるくらいには。

でも私は思うことがある。みんな目をそらしていても”みんなと違う”ものを必ず持っているのだ。そして現代社会はそれを巧妙に隠そうとする。更に自己の”みんなと違う”に対して無自覚になっている。

さて、ここで”個性”というものをピックアップしよう。”個性”とは他者と明確に区別できる独自の本性のことだ。つまり、”みんなと違う”ということだ。ここ最近、”個性”というワードがもてはやされ脚光を浴び、なにか特別なもののように言われている。

私はここに醜いギャップを発見する。一方で”個性”と言い、もてはやしておきながら、”みんなと違う”ものに対しては排他的で無関心を貫く醜悪な心のことだ。

無自覚に自分をみんなと同じと思い、他者の”みんなと違う”を攻撃する―…

こんな構図は身の回りにあふれている。

自己紹介で”みんなと違う”をさらせなくなっている。

だけど、僕は自分の”みんなと違う”が好きだ。理解してくれる人は少ないけれど、他人が理解するためには長い時間をかけて説明しないとダメなんだけれど、それが自分のどうしようもない本性だから。

”みんなと違う”を捨て置かれたり、責められたり、時に攻撃されても、それはかけがえのない個性で、運良く発見された方はひとまず「初めまして」のあいさつと自分の個性を愛してみてほしい。

自分の”みんなと違う”本性の否定ほど苦しいことはないと思う。

そしてこっそりでいいから僕にもあなたの”みんなと違う”をできれば教えてほしい。

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