無題

悔しいことがあった。

力がないから正しいことが伝わらなかった。

人の汚いところを見た。自分のミスを立場の弱い人に押し付けて追求すると興奮して20分に渡り一方的に喋り続けた。

僕は絶対にああはならない。なりたくない。自分の仕事に真摯で誠実で他人を大切にしたい。けれども、謝り方も忘れるような、そんな恩も忘れるような優しい人間を利用するような人間を僕は絶対許さない。

許して、なあなあにして、弱い人の味方になるのを恐れるようなそんな人間には絶対にならない。

表面上は泣き寝入りでも精神的に負けてなるものか。

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父の腎臓が悪い

ここ数年で父が腎臓を悪くした。それでも平均より少し悪いというぐらいの数値だったのだが、この間の定期検査でガクッと下がったようだ。

父はおそらく慢性腎臓病だ。なぜ”おそらく”なのか、それは父が話すたびに「腎臓慢性症」だったり、「慢性炎」だったりコロコロ変わるからだ。父は学がない。学歴は中卒だが、中学校にはロクに通わなかったそうだ。そんなわけで、父は腎臓の検査結果に対していちいち僕に電話をかけてくる。僕は酒や煙草、コーヒーは避けて、十分な水分と減塩に努めてとお願いしてきたが、父はそれを真に受けずにどうやら水分不足で数値を悪くしてしまったらしい。医者もそんな父に通り一遍の対応をしていたそうだが、ついに病内の栄養士に相談することを勧めてきた。

きっと父は父のペースで話を進めたに違いない。父は自分の仕事の書類を役所に渡すような感覚でコミュニケーションを取ったのだろうか、僕が「水は一日何リットル取るの?」と聞くと、父は聞くのを忘れたという。いつもより多く飲めばいいという認識らしい。僕は父に「多く取っても少なく取ってもいけない。一応の目安を栄養士に聞いて自分の健康と相談して増やしたり、減らしたりしないといけない。父が自分で管理しなくてはいけない」と言うと、父は「わからない」とだけ言った。

父は二度結婚をしている。姉と兄が生まれてからは一生懸命仕事をした。私達兄弟を大学に入れてくれた。学はないが、心得のある人間である。でもそんな父が最近はトラブルが多い。母も年を取り、両親はいつの間にか少しわがままになってきているようだ。腎臓の検査結果が出る一月前には夫婦喧嘩をした。亭主関白だった父が母に参りきって僕に実家に帰ってきてくれと言う。姉と三人ぐらしの父は女ばかりで辛いのかもしれない。あんなに怖かった父は少し弱ってきている。

夫婦喧嘩の際、母に一週間ほど東京に遊びに来てはどうかと切り出すと母は少し憤慨したのかもしれない。

年の離れた兄と姉は両親の近くに住んでいる。僕は少し羨ましい。ここ12年は1年に一度ぐらいに両親と会うだけだ。離れて暮らしている僕に一体何ができるんだろうか、いつの間にか年をとってしまった。父の腎臓はうまく持ってあと十年だと言う。十年立つと80歳が目前になる。80で透析治療を受けるのだろうか、早くちゃんとしなければと思う。

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痴漢を逮捕してもらい、示談するまでの話

痴漢を現行犯じゃなくて被害届を出し、通常逮捕してもらいました。

その中で警察に動いてもらうのに効果的だったこと。検事や弁護士とのやり取りから学ぶことが多かったので記事にします。

私としては、こちらの負担が少なく、示談することができたので被害をあわれた方は参考にして下さい。もちろん示談すること自体は自由だと思います。

なお、私は代理人で本人ではありません。事件の詳細はぼかして書きますが、示談においても事件秘匿においてはサインしていないので問題ないかと思います。

[事件発生]

彼女が痴漢にあいました。ある日の深夜近く電車の座席に座っている時のことです。横に座り膝と臀部を触ってきたそうです。痴漢以外にも約30分に渡り、駅構内から駅周辺をつきまといされたそうです。

彼女には事件発生からずっと指示に従ってもらいました。事件直後にはケアを優先し、落ち着いてから逮捕起訴を目指すことにしました。被害者は恐怖心があるので自立して戦うことは難しいです。

[その後の経過]

駅周辺にカメラがあるのでつきまといに関しては証拠が取れるだろうと思っていました。警察に言おうか考えましたが、中途半端な対応を取られるのも嫌だったので一時保留しました。落ち着いてご飯を食べれるようになった頃、ちょうど1日後にカバンの中から犯人からの連絡先(カカオトークのID)を書いたカードが見つかりました。

それを元にこちらから連絡し、デートの申し込みを受けるが、デートを条件に免許証の写真と痴漢を認めさせました。犯人をアホだなとは思ったが、こういう人が痴漢するんだと妙に納得しました。

手元に犯人からのカカオのメッセージによる個人情報と犯行についての自認があったので、それを元に警察に連絡することにしました。

[警察への対応]

電話してすぐ「犯人を逮捕したい」、「警察の捜査には協力する」旨を伝え、”被害届を出すにはどのようなステップを踏めばよいか”を聞きました。警察署で話をとのことだったので、署に行き、証拠品(カカオトークのIDなど)を出したり、話をしたり、カードを触っているので二人分の指紋をとったりして5時間程かかりました。

事件発生当時の服を洗濯していたので犯人の手の組織が取れず、カカオトークによる特定は前例がないとのことで送検は難しいかもしれないが、情報の確度が高いため捜査の継続を約束してくれました。

ここで、警察に何を言われても捜査への協力姿勢を示せば警察は協力的であることを学びました。自転車取締のおまわりさんはちょっとアレな人が多いが、刑事はまともな常識観念を持っている人もいたということです。

警察署には一回行っただけで済んで、あと必要なときは自宅まで来てくれました。深夜に動いてくれたので日常生活に支障はなかった。

[一ヶ月後]

検事から突然連絡が来て送検されていることを知る。あわせて示談の申し込みを受ける。しばらくして刑事さんからも連絡を頂き、詳しく事件経過を聞いた。犯人は自宅に警察が来るとあっさり自供したそうで携帯が押収されるとおとなしくなったそうだ。犯人は一度逮捕され、即日で保釈されたようです。

刑事は裁判になると不利益も多いので示談してもいいですよと言ってくれた。送検後の対応に警察は何も言えないはずだが、こちらの動きやすいように十分配慮してくれた言動だと思う。警察から信頼されることは価値のあることだと感じた。

[示談交渉]

示談交渉は代理人として自分が一貫して連絡した。相手弁護士は金額の交渉を焦っていたが、先に示談内容の交渉(当該路線を利用しないなど)をして条件を呑めないなら金額が大きくなってしまうことを伝えた。こちらは弁護士を雇っていないし、プライベートな時間なので、雑務はすべて相手の弁護士にやらせた。示談書の大枠が決まってから、15万の提示を受けたが、交渉し、最終的に40万になった。

交渉途中で幾度も「相場では~」や「法律の常識では~」など、マウントを取りに来たが、その都度、「示談そのものはプライベートなことで違法でない限りは法理は必要のないこと」や「謝罪に相場は必要がないこと」を主張した。

示談金の交渉では、役所でとってきてもらった所得証明書を送ってもらい、相手の収入きいてから決めた。

また示談交渉が始まる前に謝罪文を送ってもらった。これは反省等を促す意図ではなく、示談ができないかもしれない緊張感での「〇〇だから許してほしい」などの言質を取るために行った。結果、示談書作成する上で謝罪文を引用することで有利な条件を引き出すことができた。

[示談締結]

駅前のファミレスで行った。弁護士はこちらの事務所まで来ませんか?と最後まで渋っていたが、当たり前だが、来てもらった。示談後、犯人からいくら報酬をもらっているのかを聞くと、大体の相場は30~50だそうだ。相場の中頃と言っていた。

だから示談金をもらうなら同程度以上の金額がいいと思う。痴漢弁護の弁護士は30万以上の報酬を得て、それより小さい金額で謝罪するのが仕事なのだ。弁護士報酬よりも低いのは気分が悪い。

[最後に]

彼女はこれまで何度か痴漢にあっている。少し慣れているところもあったが、40万をもらってから自分のおしりの尊厳に気がついたようでそれは良かったと思っている。痴漢経験のある女性は少なくないと思うが、きちっと情報がある場合は泣き寝入りする必要はありません。警察は仕事ができる見込み(証拠があるなど)の限りは紳士的に働いてくれるので活用しましょう。

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百瀬、こっちを向いて。 を見た。

ずっと見ていなかった映画だ。それも見たかった映画ではなく、目の端に止めて気になっているが能動的には求めようとしていない映画だ。昔に原作を読んでいて、映画みたいな~と思いながら公開期間が過ぎ去り、ツタヤでたまに見かけながら、「時間がある時に借りよう!」と思いながら借りず、アマゾンプライムに公開されていると思いながら手がつかなかった映画だ。
 見るかどうか悩みながらレビューを見ていると”岩井俊二にインスパイアされた作品”と目がついて、それがきっかけになった。面白くなくてもいいのだ、4年来の重い腰をあげてみることにした。
 その前に、「Love Letter」を借りて見直したので、僕がいかに岩井俊二が好きなか分かると思う。岩井俊二は日本映画の良いところを詰め込んだみたいな映画を作る人だ。映画の派手さはひと欠片もないが、映像による表現技法を10代のかわいい女優に詰め込む技術は評価されている。そういえば、「Love Letter」公開時の中山美穂は25歳なので、10代ではない、岩井俊二は年齢にこだわっているわけではないだろうが、世間は岩井をそう見ているように思う。
 果たして、「百瀬、こっちを向いて。」は少し退屈してしまった。岩井俊二をあきらかに意識しながら脚本とメインの俳優の不一致が気になってしまって慌てて原作を思い出したほどだ。ただ、早見あかりは可愛い。彼女は決して顔のパーツが良いわけではないが、役柄とハマっているように見えた。映画中、原作と真逆に結末が進んでいく中、僕は高校生の頃なら楽しめただろうかと考えた。
 僕は、映画に向きがちな意識を徐々に自分に向けながら、作品のテーマだろうか、”こっちを向いて”について考えることにした。多くの人は、自分に関心を向けてほしいと願う一方で、他人には無関心な人が多いのだろう。小さい頃、僕も母の関心を引きたくて大きな声をあげて泣いたことがる。しかし、それは母に向けてであった。通行人や、幼稚園の先生に向けてはない。幼稚園の先生を間違ってお母さんと呼んでしまい、恥ずかしくなる人がいるだろう、あれは自分で幼稚園の先生がお母さんではないことに気がつくからだろうと考える、恥ずかしさに先生が母ではないと気がつくのだ。そしてこっちを向いてと願う異性の存在が恋愛なのかもしれない
 主人公が「こっちを向いて」と早見あかりに呼びかけて、僕は主人公が片思いをしていることを思い出した。それまでは、大根だな、とか、棒読みだな、などしか思い至らなかった主人公にハッとする。僕が目の端に留めながら気になっていたのは”こっちを向いて”という、ある種の恥ずかしい感情であったのだ。
 最後、髪を伸ばした百瀬は振り向かずに歩いていってしまう、主人公も気に留めながら振り向かない。時がたって、追いかけて「こっちを向いて」とか言わない、スマートになった主人公がなんだか、現実に汚れて見えることに、たしかにフィクションが見えた。10代の純粋さが見たかったのに余計な大人の意地の張り合いを見せつけられた感じだ。
 僕は、子供の頃の自分は母が優しく慰めに近寄ってきても泣き続けたように、”こっちを向いて”と、そこまで言ってしまえば、もう満たされないと思う。だけど、”こっちを向いて”ほしい自分に恥ずかしさを感じながら口には出せないのだ。

 子供の頃の自分に会えた。今回はそれで良かった事としよう。

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子供のくせに、女のくせに。

時折、父は「ガキのくせに!」と僕を叱った。僕は中学生になって「子どもの権利条約」などを学び、どうやら父は言ってはいけない叱り方をしていることを知った。「ガキのくせに!」と言われた僕は恐怖だった。それが刷り込まれていた。

父は姉にも「女のくせに!」と叱った。僕は年をとり「ガキのくせに!」と言われなくなったが、大学生になっても「女のくせに!」と言われる姉が不憫だった。「女のくせに!」と聞けば恐怖だった。

僕は恐怖が不快だった。逃げたかった。父のそんな部分は苦手だった。僕はその恐怖に仕返しに父を悪者にして、生きていた。父を悪者にすることでバランスを取った。

先日、大学祭にいった。ある学生がジェンダー論におけるセックスについて語っているのを聞いた。アンケートをし、女性が泥酔していたり、一人で男性の家に上がったときは一部の男性が”セックスをしてもいい”と受け取るという結果を示していた。約3割の学生がそう考えているようだ。彼はそれを本来は0%でなければいけない。と言った。僕は純粋な学生だと感心したが、一方で、世間とはそのようなものだと、アンケートの結果を意外には思わなかった。その時、最近もやもやしていた感情に結論がついた。

当時、父の「ガキのくせに!」「女のくせに!」という恐怖は父への恐怖だったが、それは本質では世間への恐怖だったのだ。疑いを知らない純粋な子供に、世間の醜悪さを知らない女性に、世間の恐怖に知性をいまだ発揮していない人間に、世間の怖さを代弁したのが父だったのだ。父は自分の子供を守りたかっただけなのだ。口が立って年上にも平気で意見をする僕に、友人と遊んで帰宅が遅くなりがちな姉に、父は理解しない子供に「ガキのくせに!」「女のくせに!」という恐怖を与えたが、それは世間のそれよりも優しかった。

僕は父の元を離れて上京してから世間と相対することになった。僕は18というだけで世間からは舐められていたように思う。そんなとき、私は嫌だったが、怒った。自分の権利を主張するために怒るしかなかった。今は30になった。怒ることも減ったし、権利を主張するときも穏やかに伝えることができる。でもそれは僕が30歳だからだ。30歳だから相手が話を聞いてくれるのだ。僕は23歳の時、50代の大人が僕のアパートの中で土下座しているのを見ている。正当な権利を侵害されてそれを伝えても対応しないのは僕が若いからですか?と伝えて初めて相手は自ら土下座をした。僕は虚しくそれを見ていたが、急に自分が子供ではないことを自覚した。

そんな話の顛末を父に伝えると、そんなことは父に任せろと小言を言ったが、「ガキのくせに!」とは言わなかった。

僕は付き合っている彼女に代わって、物事に対応することがある。世間は女性というだけで舐めてかかってくるからだ。一度彼女がショッキングな表情したことがある。それは男性の僕が彼女に代わって対応した件があって、相手の態度が変わったときのことだ。自分が性別で下に見られているのを知ったときの感情は「女のくせに!」と言われ時とどちらが悔しいのだろうか。

今、僕は付き合っている彼女の痴漢事件の示談の代理人をしている。犯人は反省もしていないだろうが、相手の弁護士にさらなる対応の必要性を伝えることができる。大人になったからだ。だが、女性は大人になっても偏見と戦わなくてはいけない。

僕は大学祭の彼にも聞きたい。アンケート結果を義憤の表情で伝えてきた彼に。きっと僕は娘がいたら、泥酔したり、男性の家に一人で行ったらだめだと言うだろう。その理由に、娘が女性だからという理不尽な理由を添えて憎まれ役を買って出るのだ。その僕を差別主義者だと思うか?と。

子供のくせに、女のくせに。というセリフも本当は優しいときもあるのかもしれない。
「ガキのくせに!」と言われて泣いていた自分に愛情に包まれて育っていることを僕は伝えてあげたい。そして今ではなく、いつか、子供が子供と言うだけで権利を奪われることのない世の中になればいい。僕は泣かされた復讐と両親へのせめてもの親孝行で世間と戦っているのだ。

それが、僕にとって生きているってことの一つだ。

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ガスコンロが壊れた。

ずっと一人暮らしで使っていたガスコンロが壊れました。今まで勢い良くでていた青い高温の炎だったのが、ゆるい赤い炎しか出なくなってだらしない感じだ。少しぐらいなら使えるんだけど、赤い炎ってだけでこんなにも不安になるって怖い。そういうわけでインスタントばかり食べている。

ガスコンロは11年使っているものなんだけど、急に働かなくなってしまった。どれだけ勉強しても、どれだけ賢くなっても、目の前のこの機械は働かないのだ。

大学に入りたての頃を思い出した。
僕のことを全然理解しない先輩がいて、でも親切で根の悪い人じゃなかった。どちらかといえば好きだった。でも一度、誤解されたことがある。そのことが理由で先輩は僕に当たりが強くなってしまった。

ありていに言えば、今落ち込んでいる。僕は今すっかり落ち込んでしまって、なにをすればいいかわかっていても手につかない。鬱とかじゃない。病気とかじゃない。落ち込んでいるだけだ。

ガスコンロは買い換えればいいけれど、人間のことはそうは行かない。誰かに褒めてほしい、よく頑張ったねってそれだけでいい。

自分が好きな尊敬できる人に認めてほしい。自分のコンプレックスが嫌だ。

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「メリー・ポピンズ」を見た。

最近は映画館でよく映画を見るようになった。

ひとつには映画館という空間が好きになったこと。映画館には適切な空調管理と、携帯電話を切っていてもいいという自分への口実ができるからだ。そういえば30歳になった。30歳の良いところは社会から舐められなくなることで、悪いところはしがらみが増えることだ。しがらみ自体は悪いことではないのだが、意図していない時、空間で連絡が来ることが増えた。僕は連絡をスルーできる性質ではないので映画館という空間は都合がいいのだ。
もうひとつの理由は、いまお付き合いしている方とデートに行くことがあるからだ。その方との初めてのデートはレイトショーだったので、映画館に行くと少し感慨深いものがある。
さて、表題のメリーポピンズだが、当然リバイバル上映になる。会場までの立川の映画館までる前日から宣伝文句である”爆音上映”について少し言い争いなんかをしながら、50年前のディズニー映画ということだけを頭に入れて見に行った。最近はディズニー映画を見る機会が多く、それまでに「In to the woods」と「ノートルダムの鐘」を見ていたので最近のディズニー創作ではなく、原作がしっかりしている作品の映像化にこだわっているディズニーを感じながら見た形となる。ディズニーは鬱陶しかったりうるさい映画もあるが、2作品はとても良かった。ミュージカル台本が優秀なのかもしれないし、ヴィクトルユゴーが良いだけなのかもしれないが、とにかく、良かった。そして、はたしてメリーポピンズも良作だったのである。
メリー・ポピンズは50年前のイギリスが舞台なのだけど、一言で言えば子供への”全肯定”の作品だ。思えば、ディズニーの過去の名作は弱者への肯定を捧げる作品が多いように感じるのだが、いや、”弱者への肯定”ではなく”人間への肯定”だ。”人間性への肯定”がいつしか”弱者への肯定”とニアリーイコールとなってしまった最近の風潮にメリー・ポピンズは誰もが子供だったことを思い出させてくれる。
僕は鑑賞後のさわやかな爽快感を文章に閉じ込めたかったけれど、今はもう無理みたいだ。少し時間がたっているし、ここは映画館ではないからしがらみがたくさんある。「疲れた現代人にオススメ」なんて言葉を使うと商業主義に過ぎるだろう。新作の映画は期待はずれになってしまうかもしれない。
僕はこんなブログを読みに来るようなあなたに鑑賞してほしい。そしてできれば映画館で。

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言葉というもの

言葉というものは厄介だ。ウィトゲンシュタインは「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」と沈黙という手段を用いて語ることなく存在を示すことにしたが、ともあれ言葉に限界があるのだ。
誰もが”ありのまま”の自分を表現したい、見てほしい、という欲求とままならない言葉とで揺れているのではないか。
何も難しいテーマだけではない。例えば、臭い場所があったとする。「〇〇が臭かった」といえばことは足りるはずだが、〇〇が被差別部落地域であった場合、通常この表現は許されない。哲学者のライフワークとは次元は違うが、言葉の持つ性質としてこれは避けられない現象だ。本来の意味とは違う贅肉が付加されうることで、不自由な言葉余計に不自由になる。
文化というのは恐ろしい、享受できるものもあれば、厄介な問題も同時にもたらす。今言葉や表現にはあまりにも贅肉が多い。
芸術や美術や作品作りではその贅肉をあえて無視したり、狭い表現の道をきめ細やかに通ることによって目標に迫っていく。時には大胆で、繊細な舵取りでしかたどり着けないものが人の心を動かす。
言葉は不完全で誤解を生むものだが、それ以外の強力なツールが僕たちには用意されていない。
普段は心を直接に表現すること、されることに後ろ向きな現代人でもダイレクトや繊細な表現に心惹かれるのは人間の性であると思う。
今は表現を抑圧された時代だ。どこかで誰もがその鬱憤を晴らしたいと機会を狙っている。言葉の裏をかいて人の心に迫るような意地の悪さがまかり通っている。芸術家にアマチュアが批評を加えるのだ。

だが、僕はそれは手段として間違っていると思う。正しいあり方は「〇〇は臭いと思う」とはっきり言うことだ。頭に「あそこは差別されがちな地域だけど、そういう意味じゃなくて」と付け加えることも時には必要かもしれないが、僕は不要だと思う。なぜなら、それは差別している人に必要な心の努力であって、本来は不要だからだ。高度に細い表現の道に入り込んでもダイレクトな表現を選んでも、もう表現の受け手側が理解する素養を発揮することは減ってきている。むしろ贅肉を言葉の一部かのような捉え方が横行している。僕は素朴で素直な表現が必要だとおもう。
その結果に誰かの感情に火をつけることになっても僕は言葉で生きていく以上必要なことだと思う。

僕は最大限の努力の中、凡庸な薄っぺらい言葉で生きていくのでなくて、最大限の積み上げでそのままありのままに近い言葉を使っていきたい。

僕は贅肉に精神を与え、自分を空っぽにしたくない。むしろ、贅肉を落とし、率直なコミュニケーションの中で、本来の言葉の力が人間本来の心を取り戻していくのではないのか。

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無題

頭がいいと言われても僕にはそれは不十分で中途半端で何も満たしてくれない。

私にはコンプレックスがある。まぶたの一重と鼻の低さと、あとは、できの悪さだ。そう、僕はできが悪いのだ。
他にもある。昔から足が早くなりたかった。でも早く走れない。小学3年生のときに友達を亡くして、遅くなった。50m走で1秒遅くしてしまった。僕には決定的な出来事だった。
小学生の頃、持久走も走り幅跳びもやったけど、地区大会がせいぜいだった。中学では柔道をやっていた。試合では一回も勝てなかった。勝ちたいという執念がないと言われた。

最終的に僕が憧れた職業があった。それは研究者だ。

はじめは数学者だった。紙とペンで科学をリードする彼らは僕の羨望の的だった。彼らの人間性のアンバランスさにも惚れたし、不可解な生き方に憧れた。ガロアやラマヌジュンの人生を調べて悦に入ったりした。
僕は研究者を目指すことにした。が、勉強の出来はごく普通だったと思う。ただ、結論に至るセンスは他と違っていたと思う。僕が他人と決定的に違うのはそれだ。

数学者ではなくなってしまったけど、今僕は研究者を目指している。

いま、カンファレンスに出れば有名大学の教授の発表を聞くことができるし、自分の研究の相談も乗ってくれる。大学の同期が大学教員になっているし、研究話やまつわるよもやま話もできる。
一方で、僕よりセンスのない先輩が学位をとって研究者なっている。いま僕が必要なのはセンスでも頭の良さでも何でもなく適性なのだと思う。

大学で走るのが速い同期がいた。そいつが走るとドキドキしたし、感動した。でも本人と話したらままならないことが多かったようだった。同期の大学教員も同様でなにか自分の目標との不一致を解消しようとして模索しているようだった。同じようなケースなのだろうか、最近、僕は前にもまして「頭がいい」と言われることが増えた。アカデミックな場でも言ってもらえる。だけど、その言葉をどう受け止めればいいのだろうか、その頭の良さはできの悪さと引き換えにしてしまったのではないか。しかも残念なことに、僕のセンスはどうやら突き抜けそうにないし、それだけを評価してくれる舞台はどうやらなさそうだ。

僕はいま、「頭がいい」自分と卒業が遅れている身分ともてあましたセンスとで、宙に浮いている。

何故浮いているのか、ほしい評価が得られないからだ。僕のほしい評価が得られないままで有頂天になれないからだ。その点で僕は絶望してしまっている。絶望して逃げているのだろうか。

自分は有頂天になれないからすねてしまうようなつまらない人間だったのか。

ある問題で、ディスカッションをする。僕が問題提起をする場合、序の口で「なぜ?」と入る、丁寧に説明をして「そんな切り口があるとは思わなかった、頭がいいね」と言われる。結局、問題意識や、問題の共有はできずに終わってしまう。僕のセンスの結晶は誰に評価してもらえるのだろう。誰と共有できるのだろう。僕は末っ子で相手にしてくれる大人は多かった。話は聞いてくれた。だけど、話を聞いてくれる分だけ「何を考えているかわからない」と言われた。場所を変えて、アカデミックに行っても同じだ。理解はしても評価はくれない。興味はくれない。

簡単だ、自分の独自な性質だからだ。自分で完成するしかないのだ。完成品を出して使ってもらうしかない。

こんな救いのない文章を書きたくなったのは、切なさや、感傷に浸って自分の目標を失わないためだ。郷愁や陳腐な代替物で満足しないためだ。

他人にどう思われてもいい、僕は自分を満足させたい。幼いままの出来の悪かった自分を褒めてあげたい。

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本を読むこと

ショウペンハウエルの「読書について」を再読した。古典として残るべくして残った良書だと思う。
ショウペンハウエルは「筆者と向き合う必要はない」と結論していると記憶しているが、私は、おそらく、彼の主張と同じ意味で、仮想的な筆者を想定している。
私は本を読むとき、仮想化された筆者からの、一方的な主張にされされる自分を感じるのだ。
逆に、本の世界を離れ、リアルな人間に接するとき、双方向に伝達可能な関係においての相互理解の難しさに絶望的になる。
一冊の”本を理解する”ことと、一個の”人間を理解する”ことは段違いに難しい。
しかし、最近は人間も仮想化されているらしい。自分という個人をうまく仮想化し、抽象化し、そして具体化し、さらにわかりやすく加工し、やっとコミュニケーションという舞台に上がることができる。

他人とうまくコミュニケーションをとることのコツはわかりやすい人間になることだ。だが、私は現実を本のように生きて無駄にしたくない。

生き生きとした人間に触れながら、自分もまた、生き生きとした人間でありたい。

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