自由に生きたい

上手に言葉に出来ないけれど、もっと自由に生きたい。

距離とか、お金とか、そういう物理的なことではなくて精神とか心の話だ。
今なにかに抑圧されているわけではない。だけど、自分らしさがわからない。今まで僕は自分らしく生きてきたつもりだった。実際に目の前に夢中になれるものがあって没頭していれば自分らしくいられた。
だけど、それは本当の自分らしさなんだろうか、どうやら僕は自分というものをもう一度見直す必要があるんだと思う。
「僕らしさ」というもの(個性って言えばそれまでだけど、最近は熟語が切り取った固定的な静かな存在みたいで苦手だ。和語にすると躍動感が感じられるのは僕だけですか?)の意味が変わってしまったのかもしれない。僕は慎重な性格で他人に気を使うことが多い。本当はこうしたい、ああしたい、ということがあっても僕は無意識に妥協して人に合わせてしまうのだけど、これ自体に良いとか悪いとかじゃないと思ってる。問題は僕が本当にやりたいことをそのままやってしまって良いのか自信がないということだ。今、「僕らしさ」は急速に過ぎ去っていこうとしている。僕は、人は、ずっと「僕」のままではいられないから新しい僕が必要になっているのだ。

妥協ではないけれど、相談することも増えた。それも相談する前にもうほとんど最適な回答が得られているのにもかかわらずに、である。
今まではそれで良かったのだ。1割でも5%でも発見があった。誤解しないで欲しいのだけど、他者から得られるものがなくなったわけじゃない。だけど、自分で試してみたいという欲求がどんどん強くなってきていて誰かのまねだけでは満足できなくなってきている。今までのやり方では「僕らしさ」が死んでしまう。これは生き方の問題だ。
どこかで変えなくちゃいけない。今のままではどんどん死んでいってしまう。今の生活が不満なわけではない、むしろ恵まれている。だけど、失敗しても良い、「僕らしい」生き方ができればそれでいい。
孔子は「七十にして心の欲する所に従えども、のりを踰こえず」と言っているが、僕は七十まで待てない。わがままで言っているのではない。僕の手本は孔子ではないというだけだ。
学ぶということの本質は他者のまねだけれど、もう真似る段階ではないんだ。先の見えない中であがいていくしかない。
僕には大切な人たちがいてよかった。友達や恋人、家族なんかには無条件で甘えられる。具体的に何かをしてもらうわけではないけれど、存在を認めてもらって甘えているんだと思う。

そうだ、僕を抑圧しているのは他者ではない、社会ではない、僕自身なのだ。

恐ろしいことに僕は僕を抑圧しているんだ。もっと自分を自由に遊ばせていいのに、心を広々と放してしまってもいいのに、それができないのだ。僕はもっと自由な自分へ変わりたくなったのだ。
できることだけこなしているのは人間じゃない。僕は自分にできないことをやってみたくなった。

多分少し長い時間がかかるけど、気がついてしまったら今のままじゃだめだ。まだまだ自分に投資して僕を育てていくことに必要なことはたくさんあるけれど、文章にするとほんの少し自由になれた気がする。
文章の力は偉大だ。

僕という存在をを写し取っているはずなのに、すぐに写し取れない存在が顔を出す。

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