言葉というもの

言葉というものは厄介だ。ウィトゲンシュタインは「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」と沈黙という手段を用いて語ることなく存在を示すことにしたが、ともあれ言葉に限界があるのだ。
誰もが”ありのまま”の自分を表現したい、見てほしい、という欲求とままならない言葉とで揺れているのではないか。
何も難しいテーマだけではない。例えば、臭い場所があったとする。「〇〇が臭かった」といえばことは足りるはずだが、〇〇が被差別部落地域であった場合、通常この表現は許されない。哲学者のライフワークとは次元は違うが、言葉の持つ性質としてこれは避けられない現象だ。本来の意味とは違う贅肉が付加されうることで、不自由な言葉余計に不自由になる。
文化というのは恐ろしい、享受できるものもあれば、厄介な問題も同時にもたらす。今言葉や表現にはあまりにも贅肉が多い。
芸術や美術や作品作りではその贅肉をあえて無視したり、狭い表現の道をきめ細やかに通ることによって目標に迫っていく。時には大胆で、繊細な舵取りでしかたどり着けないものが人の心を動かす。
言葉は不完全で誤解を生むものだが、それ以外の強力なツールが僕たちには用意されていない。
普段は心を直接に表現すること、されることに後ろ向きな現代人でもダイレクトや繊細な表現に心惹かれるのは人間の性であると思う。
今は表現を抑圧された時代だ。どこかで誰もがその鬱憤を晴らしたいと機会を狙っている。言葉の裏をかいて人の心に迫るような意地の悪さがまかり通っている。芸術家にアマチュアが批評を加えるのだ。

だが、僕はそれは手段として間違っていると思う。正しいあり方は「〇〇は臭いと思う」とはっきり言うことだ。頭に「あそこは差別されがちな地域だけど、そういう意味じゃなくて」と付け加えることも時には必要かもしれないが、僕は不要だと思う。なぜなら、それは差別している人に必要な心の努力であって、本来は不要だからだ。高度に細い表現の道に入り込んでもダイレクトな表現を選んでも、もう表現の受け手側が理解する素養を発揮することは減ってきている。むしろ贅肉を言葉の一部かのような捉え方が横行している。僕は素朴で素直な表現が必要だとおもう。
その結果に誰かの感情に火をつけることになっても僕は言葉で生きていく以上必要なことだと思う。

僕は最大限の努力の中、凡庸な薄っぺらい言葉で生きていくのでなくて、最大限の積み上げでそのままありのままに近い言葉を使っていきたい。

僕は贅肉に精神を与え、自分を空っぽにしたくない。むしろ、贅肉を落とし、率直なコミュニケーションの中で、本来の言葉の力が人間本来の心を取り戻していくのではないのか。

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