いじめの問題が抱えるジレンマ

最近のいじめ報道に憤慨したのでいじめについての自分の考えを述べる。

”いじめ”とはなんだろうか、現行の日本政府における”いじめ”の定義には少なくとも2つあるようだ。

  1. 文部科学省によるもの

当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的、物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの

  1. 法律(いじめ防止対策推進法、第二条一項)によるもの

児童等に対して、当該児童等が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一定の人的関係にある他の児童等が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものをいう

どうやら、日本政府による”いじめ”の定義には少なくとも以下の要件を含むようだ。

  • 児童であること
  • (判定すべき問題に対して)一定の人間関係が存在すること

だが、私は”いじめ”は児童にのみ存在する問題ではなく、また、加害者のいない”いじめ”も認めるべきと考える。また、一般に犯罪と言われるたぐいの問題やそれに準じる問題とは切り離して考える。例えば、恐喝や、窃盗、詐欺は犯罪である。被害者の感情に客観性がない場合や、年齢による制限や、強制性の判断がつかず、司法によって不起訴や警察が取り扱わない場合でも、被害者にとって明確であれば、私は犯罪と呼ぶ。私は犯罪に対しては大小なりとも加害者にペナルティが課されるべきであると考える。これを求めることに対して、被害者の”暗い感情”は必須ではなく、別の感情であってもかまないしむやみにその動機の拠り所を特定されるべきではない。

”いじめ”に客観性がある場合、つまり誰から見てもいじめと分かる場合については、改善が期待できる。周囲の強制力を持つ存在に頼ればよい。こうした問題について自力での解決を優先することは愚かであると思う。自分の心身に渡る健康を優先すべきだ。

”いじめ”に客観性がなく、主観的である場合、これは直ちに改善が難しい。例えば、ある集団による雰囲気によって醸成されるものがそうだ。こうした問題を放置すれば、進んでいく歴史の中で解決されないと”差別”と名前を変えることになる。”いじめ”は「私だけが我慢すれば」という問題では決してない。解決しない”いじめ”は必ず同じ事象によって苦しむ後輩が現れる。

また、”いじめ”の要件に加害者が必須であるならば”いじめ”が新たに”いじめ”を呼ぶ可能性さえある。そして客観性のない”いじめ”には「いじめを認定する証拠がない」という問題が常に付きまとう。しかも、万が一にでも”いじめ”が誤認された場合、誤認された”いじめ加害者”に対しての精神的苦痛は新たな”いじめ”になりうる。

”いじめ”の問題はこうしたジレンマを常に抱えている。そして”いじめ”の悪魔性がこのジレンマを放置するわけがない。常に”いじめ”はバレないようにひっそりと行われているのだ。

私は解決どころか認知さえされない”いじめ”の方が多数だ。よく他者はいじめられた子に対して「戦わなくても良い、逃げた方がいい」と言う。だが、私は「逃げることも戦いだ」と言いたい。

この未熟な社会は時に浅ましく時に優しく人を育んでいく。一時的に白旗を上げることがあっても知性を持って戦い変えていく他ない。私はそう思う。

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