心を伝えるということ

最近よく考えること。「言は意を尽くさず」という言葉がある。”言葉は心に思ったことを十分に言い表すことはできない”という意味なのだが、ここで理解を止めてしまうにはもったいないことを最近知った。原文は”易経”にある。引用すると、

「子曰、書不尽言、言不尽意。」

訳:孔子は言った。「書いたものは言葉のすべてを表すことはできない。言葉は、心のすべてを表すことはできない。」と。

論語は孔子の言ったことを弟子がまとめた文章なのだが、一部分の文章を切り取って、単純に知ったつもりになるのは早計にすぎると考えていいだろう。そういう誤用もよく見かけるのだが、文章には続きがあるものだ。

「然則聖人之意、其不可見乎。子曰、聖人立象以尽意、設卦以尽情偽、繋辞焉以尽言、変而通之以尽利、鼓之舞之以尽神。」

訳:ならば、聖人の心を知ることはできないのだろうか。孔子は言った。聖人は易の象を立てて心のすべてを表し、卦を作ってあらゆる事物を判断し、辞をつけてそれを説明し尽くした。変化に応じて民をより良い方向へ導き、民心を鼓舞し、人知の及ばぬ不思議な力を発揮した、と。

なんだか難しい言葉が出てくるので、僕流の超訳を試みてみたい。

孔子さん:文字や言葉は限界があって心を伝えるのには不十分だよ。
お弟子さん:では文字しか残っていない昔の偉い人の心は理解できないということですか?
孔子さん:昔の偉い人は伝える相手によって、心をイメージや図にしたり、それに言葉で説明を付けて頑張った。みんなを励まして、人知を超えて不思議な力を発揮(心を伝えた)したんだよ。

ということになるだろうか。つまりは、”昔の偉い人は心を頑張って何とかして伝えた”というようである。
最近は悲観的というか、ドライな見方が多いようだ。「所詮○○だ。」とか「そんなもんだろう。」とか、賢い人が増えた分、物事に対して諦観(あきらめ)から入ることが多い。私が最近感じていることは、文字や言葉のコミュニケーションに初めからむなしさを込めている人が多いのではないかと思う。だけど、皮肉なことに「むなしさ」が前提にあっても、言葉や文字、歌、絵はどれも自分を表現したい。という欲の塊ではないだろうか。そして、”表現されたもの”を誰かに見てほしい、聞いてほしい、ということは自然なことでもある。

必死さは伝わるものだ。そして誰かの必死さを無視しない人でありたい。

昔の偉い人でなくても、赤ちゃんが泣けばお母さんが乳をあげ、抱きしめる不思議があるように、コミュニケーションは誰もが生まれついて初めからもっている能力じゃないのかと思える。

時には想いを伝えるのに言葉が邪魔になるときもある。泣いてでも伝わることがあるものだ。

コミュニケーションをあきらめる時、実はそれは相手を自分と同じ人間であることを忘れた時ではないだろうか。双方が自分と同じ生き物だと思った時、コミュニケーションは自然になる。

必死に何かを伝えよう、きちんと話を理解しようという役者がそろった時にそこに誰も知らない世界が生まれ、喜びを感じるのではないか。微動だにしない石に向かってしゃべりかける、同じことしか言わないロボットにおしゃべりする、ような感覚になるときもあるけれどそれは間違いだ。自分と同じ生き物ならば、心を動かしているはずである。なぜなら、文字に言葉に触れるたびに心を動かしている自分がいるのだから。

中国では手紙の結びに「書不尽言、言不尽意」と書く人もいるらしい。これは理解してほしいという叫びなのか、あきらめなのか、はたまた、心を尽くした文章の結びなのか。

2件のコメント

  1. 毎回読ませていただいております。貴方の文章が好きです。貴方のように自分の気持ちを文章で表せるよう、日々学習していきます。お体に気をつけてください。

    1. ありがとうございます。僕は文章が苦手で、文章に好意を頂くのも初めてかも知れません。もう少し丁寧に、もっと更新できるように頑張ります。

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