嫉妬の本質

嫉妬とは難しい言葉だと思う。単純なやきもちだろうか。主に男女の間において使われる気がする。だが、僕はこの言葉が単純な男女間のやきもちではなく、あらゆる人間関係の中に潜んでじっとこっちを見ている気がする。

ひとまず、僕の手にはおえそうにもないブログタイトルだ。僕は人生経験の浅い人間だから、嫉妬という感情を客観的に捉えることが難しい。つまり、自分が嫉妬していることを気が付かないことがままある。そして、それはきっと自分にとって大きな損失だと思う。

ところで、僕は落語が好きなのだが、それとは別に立川談志が好きだ。人間というか、彼の切り口の鮮やかさが好きなのである。それはやはり彼が落語家であるためかもしれない。落語家は心の機微に詳しい。

そんな彼の嫉妬に対する切り口はこうだ。

己が努力、行動を起こさずに対象となる人間の弱みを口であげつらって、自分のレベルまで下げる行為、これを嫉妬と云うんです。

”嫉妬”の本質をついた言葉であると思う。お手本にするような素晴らしい人間に対して”嫉妬”するということは一定の評価を下しているに違いない。だが彼は、高い評価を下しても嫉妬は自分のレベルを下げることだという。自分がお手本に対し努力できるか、愚痴を言うのか、人間は自分より出来た人に対して平静でいれない。この環境に陥った時、自己向上するか、自分を下げるか、ほとんど二者択一しかないように思われる。

殆どの人間には都合のいい言い訳がすでに用意されている。

陰口はばれなければよい。
本人に聞こえないところで喋ればいい。
本人に直接言えば悪口ではない。
心で思うだけならば問題ではない。

だが、本当に大切なことは別にある。心を奪われるほどの相手に対し、心を奪われたままで、自分を見失うことが一番良くない。その刺激は自分に向けるべきだ。有能な相手よりなにかでもいいから勝てるのではないかとか、教えて貰う機会はないかとか、自分で自分を見失い、自分の価値を下げている行為。これを談志は嫉妬と言った。

であるならば、「自分より良くできる人を見てやる気を失う」と言ったことも、「自分より詳しい人がいてファンを辞めた」とかも、嫉妬の一分であるかもしれない。人生を振り返ればその集積は大変なものだ。

赤ちゃんのオギャーから初めて、人間はいくらかあきらめ、可能性をせばめて来たんだろう。僕には”嫉妬”が醜い赤ちゃんに見える。自分から削ぎ落とされた一部が目をそらしてくれない、そんな存在だ。

僕はロスしたくない。これは叫んでもいいほどの本音である。
他人は日常の中にそんな”ロス”を散りばめて賢そうな仮面をかぶっているかもしれない。いっときの気持ちよさの対価に自分の可能性という価値を悪魔に引き渡すかもしれない。それが社会の中で普通なのかもしれない。だが、僕は絶対に嫌だ。

心を奪われても、自分の心を奪い返すのだ。

*この記事は5月16日に加筆修正を行いました。

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