「アイスと雨音」を観た。

この間お知り合いになった方に進められた映画を観た。”アイスと雨音”とタイトルされたその映画は、調べてみると少し話題だったようだ。話題性は74分ワンカットの映画だということと、実話をベースにしていること、劇中劇の構造、役者の熱量がすごいなんてことのようだ。
この映画を見た人にはこの話題性以外に魅力がなかったなんてコメントをを残している方もいるんだけど、私の感想はちょっと違う。

私は映画を見るときにまず内側から見る。たしかに外側の情報は大事だけれど、一度頭に残っている外側の情報をすべて消し去って内側から見るようにしている。世間の評判にしているところは外側の問題だ。例えば、文学の話で、”純文学って何?”って思って調べてみると、芸術性を重んじて話の内容は二の次のような説明も見かける。果たしてこの映画もそのように受け取られるのではないか、と危惧してしまった。
私は純文学の芸術性は言語本来の伝えたいと欲求から始まると思っているし、それは映画も同じだ。伝えたいことが空っぽな作品だってもちろんあるのだが。

この映画の指している”言いたいこと”は端的にMOROHAさんによってはじめに語られる。”なんで俺は、なんでお前は今にも消えそうな感情に必死にしがみつこうとしてるんだ(?)”これが映画全体の主題だ。
しかも回答を持っている人が見たら反語になっていて、そうでない人が見たらメッセージと受けるような構成になっている。寄り道をすると、劇中劇も良くできていて作中役者のテンションに合わせて切り取られたシーンが時系列にそって演じられて厳密に区切られないことで74分の中に俳句のダブルミーニングのような効果で二重三重のメッセージを出そうとしている。

重要なシーンが有る。アイスと、雨音が出てくる場面だ。人間以外の役者で重要な意味を持つのは本多劇場以外ではこの2つしかない。主人公の女の子は仲間の女の子とともにアイスを食べながら歩く。ここで恋愛の話になり、プライベートな一面が明かされる。アイスクリームが主人公から役者を取り上げてしまうのだ。アイスが終盤になると、「甘い花の香がする」と言って一人掛けだしてしまう。しかし、仲間に引き戻されて、劇中劇になり、雨音への言及がある。雨音が好きだというのは劇中劇から現実へオーバーラップして語られ、役者としての自分を取り戻したことが暗に示される。

はじめ、鬱々とした役者として語られた主人公は、アイスによって裸にされ、雨音によって役者になる。このシーンのあとは急に生き生きとしだして表情も豊かになり、物語全体のテンポも上がる。

つまり、アイスと雨音はニック・オブ・タイム、「花の香がする世界」との運命の分かれ道だったわけだ。私は、この”消えそうな感情にしがみついている”主人公が愛おしい。ギリギリのラインでフラフラしながらやりたいことをやって成長しても観てくれる人がいないこの劇は懸命に映画として作り直されても「話題性以外に魅力がない」などと言われてしまうのだ。

でもそれはきっと正しい。

私はこの映画を正しく評価できる人には同じ後ろめたさが存在していて、しかもそれを認められる人なのではないかと思う。

そしてそういう人前に出せないストレスを現代人は抱えていて、それを認められない人は社会的には正しい存在だ、花の香につれられてフラフラ遊んでいる方が正しいのだ。

だからは私は変わっていく社会の姿を観てみたい。

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