あんなことやこんなこと

「超絶技巧を超えて 吉村芳生展」を見た

超絶技巧を超えて 吉村芳生展を見てきました。
展示自体は場所を変えて何度か行われているようなのですが、私が見たのは横浜駅のそごうに入っているやつです。スペースの関係かリスト順に並んでいないのが残念でしたが、もしかすると意図のあることなのかもしれません。限られたスペースでできる限りの展示を工夫して行っている―、そんな印象はありました。
久しぶりに、心に残った展示だったので色々調べたり、レビューなどをネット記事で読んでみたのですが「超絶技巧すごい!」に終始しているものが多くて、私の感じたものの共感があまりなかったので詳細な感想を書きたいと思ったのです。そんな訳でこの文章は私の極めて私的な感想なのですが、共感いただければ嬉しいです。

展示自体はよく考えられていて無駄なところのないように思いました。この展示のテーマの”超絶技巧を超えて”を意図しているドローイングをいくつか挟みながら作品を並べてくれているので、きちんと順に見ていけば、”超絶技巧を超えた先”を感じられました。
前半は自分自身をプリンターや写真機にするような途方もない”超絶技法の吉村芳生”が語れていきます。彼は直感やセンスなどというもの立脚せず、実に機械的で作業的に自己のスタイル確立していったようです。この彼のスタイルは早くからすでに方針が決まっていて、”この先”を示すことが、”自画像”と”花を書くこと”によって収束されていきます。展示のストーリーは「徳地・冬の幻影」を指す事によって”この先”へと進んでいきます。
そもそも、彼のスタイルでは制作の前に写真があります。現実を一度切り取ったはずの写真に”超絶技巧”を持ってのぞみ、写真ではないものを指そうとしているわけです。それはいくら金網をかいても殺せない彼自身であったと私は思いました。表現のスタイルに準じてあえて型を作り、そして型を崩していくようなことでしょうか。

“自画像”は新聞の上に(あるいは共に)書く事によって単なる新聞の情報の先を教えてくれます。息子さんのアドバイスによって自画像も花の様に雄弁になっていきます。”花を書くこと”についてはもう少し明確に、水面に映したものを主役にするなど、”写す”や”映す”事によって別の世界を示してたようです。ヒマワリの絵は特徴的で、写す事によって自分を指しているのですから、仏頂面だった自画像よりも気に入っていたのかなどと考えてしまいます。

それで私の感想なのですが、絶筆となったコスモスの絵に、その右の空白に、吉村芳生さんの魂を見ました。生き生きとあるいはもの悲しく花に映されていく人々の魂と違い、真っ白な紙に吉村芳生さんの魂を見ることで、悲しさよりもこの人を写す人はまだいないのかと感じました。
また、結果的に吉村芳生さん見たコスモスではなくて、吉村芳生さんの魂が見えてしまうことに芸術家のずるさを感じました。魂がこもった作品が作れるなんてずるい。

とても良い展示だったので横浜でデートの折にでも足を運んでみてください。

*普段は未編集なのですが、誤字脱字がひどかったので編集を行いました。

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