お金がなかったこと

ここのところ言葉になりそうでならないみたいな、思い出して何か言いたかったのに忘れてしまうような、そんな心象がずっとまとわりついていた。
ずっとそこにあるのにつかめない。忘れたりなんかしないのに思い出せない。そんな感じ。

最近僕は少し体重が増えて、72kgある。ほんの少し前まで55kgぐらいだったのに。
僕が瘦せていたのは体質だと思っていたけど、そんなのは嘘でお金がなかったからだ。
簡単な話で僕は貧乏だったのだ。
お金がないって友達に言うと信用できないなんて言う友達がいたけど、今ならそういう人の気持ちもわかる。
でも当時はわからなくて、僕は勉強を続けるのにお金が必要で、でも勉強も研究もしなきゃいけなくて仕事する時間なんてほとんどなかった。特に30歳まではびっくりするほどなくて小麦粉と塩があったら醤油と砂糖でうどんにして食べるとかそういう生活をしてた。僕にとってうどんは丸亀製麺でもどん兵衛でも冷凍うどんでもチルドの生のうどんでもなくて、小麦粉だった。
あの頃、友達と話していて、「おなかがすいてる方が集中できるんだよね」と言ってた。本気で言っていたけど今はお腹がすくと集中なんてできない。
つい半年前まで住んでいた2.7万円の夏にダンゴムシが出るアパートも、多分もう住めない。
大学1年生のころからアルバイトをしないと決めていた。
正解だったと思う。
アルバイトをせずに好きな勉強と読書と研究に打ち込んだ日々が今思い返してまぶしい。
立ち止まって迷ったり、反対の方向に進もうとするとあの頃の自分がものすごい勢いで追いかけてきて背中にタックルしてくるような不思議な気持ちになって最近は働いている。
それがなんだか楽しくて可笑しくて愛おしくて、なんて言ったらわからない。

あの頃の自分をきちんと知っているのは自分だけなんだけど、昔はそれが嫌だったんだけど、それでよかったと思う。

他人は表面しか見てくれないんだけどそれでいいしそれがいい。

なんだかあの頃いつもお腹がすいていたなあなんて思いだして、気が付いたのは最近ずっとお腹がすいてることがなかったからだ。
なんていうか、僕はお金がないほうを信用したい。
ずっとお金があった人なんて信用できない。
ずっとお腹が膨れていた人なんて信用できない。

大学教員が昔、貧乏と飯が食えないのは不幸だと言っていた。貧乏は不幸だからなくさないといけないって。僕はそうじゃない、幸せとか不幸とかはお金とか食べ物で決まらないと言ったけど、その時は理屈で返されてしまった。150人ほどの大教室でやり取りはレポートだった。今思い返して、あの時僕は一番ガリガリだったし、教授は太っていた。なんてことはない、あの中でトップクラスに貧乏だった。今僕はもうガリガリじゃないけれど、幸せとか不幸とかはお金や食べ物で決まらないと思う。

あの頃腹減ってたなあって思い出して、言葉にならない。

ジェットコースターみたいな

八王子に出張に来ている。4ヶ月ほどいなかっただけなのにもう知らない街のように感じる。でも足取りに迷いなく、体が覚えている道だ。新幹線の乗り継ぎからバスに至るまで特に何考えず、到着は一本早いバスに乗れた。

ジェットコースターは重力列車だから初めに一番高いところにのぼる。位置エネルギーを目一杯いっぱい溜める。あとは重力に惹かれるまま身を任せて仕舞えばいい。そうしたら登ったり、さがったり、傍目から見ると乱高下しているように見えるけれど、初めに溜め込んだエネルギーを超えることはない、エネルギーを失った分だけ低いところについて止まる。

みんな、うまくいかないときは何かに惹かれあって落ちることができるまでのエネルギーを溜めている。自分じゃない誰かが一番遅いジェットコースターの歩みをバカにしたり、貶したりする。でもどんどん高く登っていく。誰も見ていなくても力を目一杯貯める。

そうしたら、あとは楽しみが残る。

毎日遊んでいたら楽しみが分からなくなるみたいに、いなくなって初めてわかる友達の偉大さみたいな、そういうことがある。

力を溜めて、ズルをしないで、ためてためて。

夏です。

今朝、というか今さっき、つまり昼。
出勤しながら交差点の信号をみた時、ああ、名古屋に住んでるんだなと思った。夏のせいもあるけど、妙に鮮やかに見えて、今までのっぺりとしていて処理の追いつかなかった風景に自分が追いついてきた。
引っ越してきて気が付かなかった風景に気がつきつつある。工事してるなとか、見かけない人だなとか、今日は交通整理の人が違うなとか。
少し名古屋というか、住んでいる環境の住民になれた。

今までみたことないものを見たり、触れてない環境に居るが心地良くなってきた。
小さい頃、ショッピングモールに行ってもおもちゃ屋しか目に入らなかったけど、今は違う、そんな経験をしてゆっくり歩けるようになった。

最近は暑いけど通勤が楽しい。

ルックバックを見た。

今日は京都でひとしきり遊んで新幹線で名古屋に帰っている、その車中だ。
東海道新幹線では、車内販売がなくなったせいかホームにコーヒーの自動販売機が設置されてお金を300円払えばアイスコーヒーのジャンボが飲めるようになった。紙コップのコーヒー、蓋も自動で被せてくれる。終電の名古屋行きを乗るためにホームに15分前について、コーヒーを買うと周りの自由席の皆さんも買い始めてその度にUAの「会いに行こう」が流れる。この曲を聴くと少し前向きになる、新幹線は会いに行くための列車だ。

今日はルックバックをみた。3回めだ。

初めて見た時も、2回目も3回目も、プロローグの主人公の背中が映るシーンで泣いてしまった。
全てを犠牲にして何かを打ち込んだ経験のある人間にとっては「ルックバック」の一言ですんでしまうのではないか。
多分、僕や、彼らは凡人で褒められなければやる気を失うし、褒められなくても誰かがニコッと笑ってさえくれれば頑張れてしまえる人間だ。
だけど、それだけの理由で何かを継続するのは難しい。継続とか続けるとかなんだか偉そうなことを言っているけれど、その実はなんとカッコ悪いことか、やめられなかったのだ。

60分ほどの動画だと思う、僕は藤本タツキさんがただひたすら祈っているように見えた。自分の人生が意味のあることだと、誰かに笑ってもらえるものだと、無駄じゃないと、言い聞かせながら祈っている。ただひたすら祈っている60分、自分は何かができる人間だと信じ続ける60分。

今年は出張も多いし、友達も増えて、たくさん外に出る。
今日は美術館に行ったけど、テーマの人物は格好つけていいところばかり見せている文章を並べられていた。
僕はなんてカッコ悪いんだろうと思って、今、多分あの人もやめられなかったのではないのかとか、邪推している。

僕も何かを残せるし、あなたもきっと意味のある人生を送れる。

新幹線のホームで買ったコーヒーはジャンボというには少し小さくて文章を書き終わる前に飲み切ってしまった。
今日はぐっすり寝て、明日は日曜日だけど仕事をしよう。
トラブル続きの4月スタートだったけど、遅れてもいいきちんとした仕事をする。

きっと誰かが見てくれている。

紹介状に書いていたこと

ここではきちんと書いていなかったのだけど、僕はいくつか病気を持っている。

この間のポストに書いた「前庭神経炎」はほぼほぼよくなっていて、薬を飲んでいるだけなんだけれど、それとは別に遺伝性の病気を持ってる。
二年前、博士課程を卒業して仕事を始めたころ職場での健康診断を受けた。学生の頃はさぼっていて健康診断を受けたことがなかったので二十歳のころ以来だったかもしれない。そのころLDLコレステロールが異常だったことが分かり、間もなく家族の病歴から”家族性”高コレステロール血症の疑いで高コレステロール血症の診断を受けた。1年ぐらいはまともな治療が受けられずにいろんな医者に対応してもらっていたのだけど、いいお医者に当たって以降はずっとその方に見てもらっていた。
僕は四月から名古屋に引っ越したのだけど、その時に紹介状を書いてもらった。
新しい病院は高コレステロール血症の専門医がいる小さなクリニックに行った。すごく親切にしてくださって20分ほど丁寧に問診してもらった。紹介状をコピーして持っていきなさいと言われた、病気の記録は一生持っているべきだと。そこには「患者様は薬剤に関心がございます。医療不信はなく、お話がきちんと通じる朗らかな方です。」と書いてあって、なんだか自分が気が付いていなかった優しさに触れて参ってしまった。それも自分が朗らかだなんて思ってもいなくて、思いがけずほめてもらったような気がした。

一時は病気も悪いものじゃないのかなあなんて思うけど、やはり薬を飲む瞬間は自分が病気なんだと強く感じる。とてもいやだ。

おくすり

一日たくさんの薬を飲んでいる。

薬って不思議だ。自分にとっていいものを取っているはずなのに何か悪いものを飲んでるんじゃないかって、親に隠れていたずらするような気持ちになる。もともと遺伝性の疾患があったので定時に薬を飲んでいたけど、最近では一日に三回のまなきゃいけない。初めはこそこそ飲んでいたけど、気が滅入ってきたので、堂々と飲むことにした。

薬の粒には人類の英知がつまっている。すごいもん飲んでるんだぞ~~~~~!

あと二週間飲めば一日一回だけになる予定

世界から愛されて生きる

今日から世界から愛されて生きよう。

何も我慢したり、誰かに強制されたり、生きるエネルギーに蓋をしなくてもいい。たくさんの好意に包まれて生きよう。そういう風に世界を決めてみよう。

お米の一粒一粒に祈りが込められているように、夜空の星々に名前がついているように、砂漠の砂の一粒一粒が時間の比喩になるように、膨大な空間と果てしない時間の中で生きていることが、愛されていることの証だと今日から決めよう。

人を傷つけてはいけないように、人を喜ばせることが人々の仕事になって、起きてから寝るまで、生まれてから死ぬまで、世界のことも愛すときめよう。

過去も現在もまだ見ぬ未来にも慈愛にみちている。

そういう風に世界を決めよう。

休息是為了走更長遠的路

左前庭神経炎って名前の病気になった。

車に乗っていたら急にめまいがして一時的だろうけど、ハザード炊いてコンビニ入るかと思って車を停めたらもう視界がずっと回ったままで立ち上がれなかった。そのまま救急車に乗って点滴で薬を入れて症状を抑えてもらった。

昨日が今日になって専門医にかかり、診断を受けた。酷い症状だけど治りますよ〜、命にも別状はないし、一カ月で治ります。再発もないですよ〜と言ってもらえた。
まっすぐ歩けないぐらいにフラフラだったけれど、運動した方が良いとのことで病院から歩いて帰った。妙な時間に歩いていたからか、小学生たちと一緒になって歩くことになったんだ。

「お車がきているから道路に出ると危ないよ〜」
男の子「んん〜!なんか言った〜??」
「車が向こうに見えるでしょう、車に道をあけてあげないと危ないよ〜」
男の子「わかった!ありがと!あの人はいい人だ!教えてくれた!いい人だ!」

恥ずかしくなってすぐ通り過ぎたけど、それを聞いていた、たくさんの小学生が僕に「こんにちは!」って声をかけてくれた。みんな道にはみ出さないようにしていた。みんなチラチラ僕を見ながら「こんにちは!」「こんにちは!」元気の塊が追いかけてくるみたいに感じた。こんな風景がまだ生きてるんだと思って。

初めに書いた中国語は「一休みはより長い旅のため」最近見た映画での言葉、台湾で有名な言葉らしい。病気で自宅療養になるけど、これも大きな仕事のためだと思おう。

「こんにちは!えらいね!みんなえらいね!」って言いながら道を曲がって家に着いた。みんなにも僕にも大きな旅が待っている。

サイドミラーにアイコンのような女の子を映して

一言も話せなかったんだけど、かわいいをアイコンにしたみたいな女の子をみた。

彼女に何かできることはないか考えたけど、何にもできなかった。

世界は個人をアイコンに収めてパッケージにして商品化して何が楽しいんだろう。

僕は基本的なマインドとして世界への反骨精神がある。みんなから自由を奪ってのっぺりとした人間にしてお金を回せばいいと思ってる?

今日はとても不思議な一日で、でも変わらず自分が自分らしく居れたからこれでよかったのかな、数億年ぶりにお酒を飲んで酔ってる。
多分最後に酒を飲んでつぶれるように寝たのは金沢の居酒屋だったと思う。あの頃から何にも成長できてない気がする。
僕が他人に気をかけて、優しいと思われるのは自分に甘いからだ。

昔、誰かにみんなはそんなに強くないって言われたことがある。
みんな、夢を追い続けることはできない人が多いし、長い間の貧乏には耐えられないし、寂しさにも耐えられないって。
でも、心のすみっこで一番小さい自分が常につぶやいている。

「じゃあ、頑張って耐えて、何かを得た人はそうじゃない人から妬まれるのは不公平じゃない?その分お金も、世間並みの事も、たくさんしてきたのでは?」

財力や社会的地位の保持には責任が伴うというけれど、行使しない力に責任だけが重くて苦しい。

ずっと少しずつ悲しくて、そして苦しくて、本物の誇りがある。

僕はこの地球をこんなにも愛しているのだから、愛されるべき存在でいてほしい。
どんなに知らない他人でも苦しんでいる人を見るのは苦しい。
目に入ると無視できない、問題はそれに耐えれる精神力が僕に備わっているのか試されているってことだ。

我慢してるだけじゃだめだ。
信頼と信用が欲しい。

少しでもいいから世界を自分の思うように変えたい。
きれいな部分だけ見て生きていたい。
自分の好きなところだけ誰かに見てほしい。
みんなの事を愛せる自分になりたい。

そういえば、台湾の映画を見た、「青春18×2 君へと続く道」ってやつ。
僕が小さいころに感じていた感情が詰まっていて、とても良かった。
今日は久しぶりに飲んで、詰まっている感情があふれているのに声に出せなくて苦しいけど、文字に救われる。

僕はこの世界が好きだからこの世界からきっと愛されている。
そんな自信がある。
心は世界のどこにだって一瞬で飛んでいける。
今年もいろんなところに仕事で行って、旅行にもいって世界の事を知りたい。

いいところも悪いところもきれいなところも汚いところも全部教えて。
全部、心に収めて世界中に連れて行ってあげるから。

ゴジラ-1.0をみた

ゴジラ-1.0 を見て来ました。

そういえば報告しそびれていたけれど、3月の末に退職して、5月の頭から働くようになりました。この辺りの事情は気になる人は直接僕に聞いてください。。
つまり、4月は無職になり、バカンスを謳歌できる時間でした。5kgほど痩せて、体調が整い、部屋も整いました。

思い立って友達に会いに大阪まで車で弾丸往復したり、マッチングアプリの女性とわらび餅を食べに行ったり、いろいろお話はあるが、休暇というものはあっという間に過ぎてしまうものでもう30日である。
なんだかんだ仕事を少しづつ始めていて、前職の間できなかった個人的なテーマやボランティアの仕事を進めた。
全然手につかない場所はあるのだけれど、なんとなくうまくいっているように感じている。

今日、思い立ってゴジラを見てきた。
何か焦ったような気持ち、人生の休暇が終わってしまう!!楽しまないと!!、で駆り立てられたような気持ちになって、見てきた。
ゴジラは痛切に物語がファンタジーであることを意識させる作品だと思う。
ゴジラって何なんだ?ってことが根底のテーマにあり、あるフィクションを示すことで何かを提示する。
「ゴジラ-1.0」示すフィクションは零戦の後継機である『震電の緊急脱出装置』である。物語では時代が浮いているシーンがある。先に示したフィクションとゴジラに取り巻いてガスを発生させる装置が不自然に近代的であることだ。これはCGの予算の問題などではなく、意図してある演出であると思う。つまり、-1.0の舞台は戦後であるものの、アンチゴジラを提示する主体やフィクションは現代であるということだ。
戦中の着陸できない零戦の魂はゴジラとの決着ではなく、緊急脱出装置によって飛び終えるのだ。
そしてゴジラとの決着は誰一人死なせない信念のもと決着する。

人は何かの犠牲になって死んではいけないという、時代の精神を感じる。

情報や格差の分断のみならず、事実や真実まで分断していく現代にゴジラが語り掛けてくるのは命の尊さだ。

我々は様々な隔たりを飛び越えて、暴力によらずにもう一度、平和のために集まることができるかを問われている。

僕はバイデンでもトランプでもいい。脅しと戦争と金による争いを終わらせるリーダーであればだれでもいい。
世界から平和だけを掬い取って希望として提示してほしい。
映画はお金を払って見に行くものだけれど、そうじゃない、日々の中で感じたい。

あんまりよくまとまらないけれど、もう仕事の〆が迫っているし、ここまでにしよう。

将来見返した時にこの文章の答えがより明確に僕の中にあるように祈って。