子供のくせに、女のくせに。

時折、父は「ガキのくせに!」と僕を叱った。僕は中学生になって「子どもの権利条約」などを学び、どうやら父は言ってはいけない叱り方をしていることを知った。「ガキのくせに!」と言われた僕は恐怖だった。それが刷り込まれていた。

父は姉にも「女のくせに!」と叱った。僕は年をとり「ガキのくせに!」と言われなくなったが、大学生になっても「女のくせに!」と言われる姉が不憫だった。「女のくせに!」と聞けば恐怖だった。

僕は恐怖が不快だった。逃げたかった。父のそんな部分は苦手だった。僕はその恐怖に仕返しに父を悪者にして、生きていた。父を悪者にすることでバランスを取った。

先日、大学祭にいった。ある学生がジェンダー論におけるセックスについて語っているのを聞いた。アンケートをし、女性が泥酔していたり、一人で男性の家に上がったときは一部の男性が”セックスをしてもいい”と受け取るという結果を示していた。約3割の学生がそう考えているようだ。彼はそれを本来は0%でなければいけない。と言った。僕は純粋な学生だと感心したが、一方で、世間とはそのようなものだと、アンケートの結果を意外には思わなかった。その時、最近もやもやしていた感情に結論がついた。

当時、父の「ガキのくせに!」「女のくせに!」という恐怖は父への恐怖だったが、それは本質では世間への恐怖だったのだ。疑いを知らない純粋な子供に、世間の醜悪さを知らない女性に、世間の恐怖に知性をいまだ発揮していない人間に、世間の怖さを代弁したのが父だったのだ。父は自分の子供を守りたかっただけなのだ。口が立って年上にも平気で意見をする僕に、友人と遊んで帰宅が遅くなりがちな姉に、父は理解しない子供に「ガキのくせに!」「女のくせに!」という恐怖を与えたが、それは世間のそれよりも優しかった。

僕は父の元を離れて上京してから世間と相対することになった。僕は18というだけで世間からは舐められていたように思う。そんなとき、私は嫌だったが、怒った。自分の権利を主張するために怒るしかなかった。今は30になった。怒ることも減ったし、権利を主張するときも穏やかに伝えることができる。でもそれは僕が30歳だからだ。30歳だから相手が話を聞いてくれるのだ。僕は23歳の時、50代の大人が僕のアパートの中で土下座しているのを見ている。正当な権利を侵害されてそれを伝えても対応しないのは僕が若いからですか?と伝えて初めて相手は自ら土下座をした。僕は虚しくそれを見ていたが、急に自分が子供ではないことを自覚した。

そんな話の顛末を父に伝えると、そんなことは父に任せろと小言を言ったが、「ガキのくせに!」とは言わなかった。

僕は付き合っている彼女に代わって、物事に対応することがある。世間は女性というだけで舐めてかかってくるからだ。一度彼女がショッキングな表情したことがある。それは男性の僕が彼女に代わって対応した件があって、相手の態度が変わったときのことだ。自分が性別で下に見られているのを知ったときの感情は「女のくせに!」と言われ時とどちらが悔しいのだろうか。

今、僕は付き合っている彼女の痴漢事件の示談の代理人をしている。犯人は反省もしていないだろうが、相手の弁護士にさらなる対応の必要性を伝えることができる。大人になったからだ。だが、女性は大人になっても偏見と戦わなくてはいけない。

僕は大学祭の彼にも聞きたい。アンケート結果を義憤の表情で伝えてきた彼に。きっと僕は娘がいたら、泥酔したり、男性の家に一人で行ったらだめだと言うだろう。その理由に、娘が女性だからという理不尽な理由を添えて憎まれ役を買って出るのだ。その僕を差別主義者だと思うか?と。

子供のくせに、女のくせに。というセリフも本当は優しいときもあるのかもしれない。
「ガキのくせに!」と言われて泣いていた自分に愛情に包まれて育っていることを僕は伝えてあげたい。そして今ではなく、いつか、子供が子供と言うだけで権利を奪われることのない世の中になればいい。僕は泣かされた復習と両親へのせめてもの親孝行で世間と戦っているのだ。

それが、僕にとって生きているってことの一つだ。

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ガスコンロが壊れた。

ずっと一人暮らしで使っていたガスコンロが壊れました。今まで勢い良くでていた青い高温の炎だったのが、ゆるい赤い炎しか出なくなってだらしない感じだ。少しぐらいなら使えるんだけど、赤い炎ってだけでこんなにも不安になるって怖い。そういうわけでインスタントばかり食べている。

ガスコンロは11年使っているものなんだけど、急に働かなくなってしまった。どれだけ勉強しても、どれだけ賢くなっても、目の前のこの機械は働かないのだ。

大学に入りたての頃を思い出した。
僕のことを全然理解しない先輩がいて、でも親切で根の悪い人じゃなかった。どちらかといえば好きだった。でも一度、誤解されたことがある。そのことが理由で先輩は僕に当たりが強くなってしまった。

ありていに言えば、今落ち込んでいる。僕は今すっかり落ち込んでしまって、なにをすればいいかわかっていても手につかない。鬱とかじゃない。病気とかじゃない。落ち込んでいるだけだ。

ガスコンロは買い換えればいいけれど、人間のことはそうは行かない。誰かに褒めてほしい、よく頑張ったねってそれだけでいい。

自分が好きな尊敬できる人に認めてほしい。自分のコンプレックスが嫌だ。

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「メリー・ポピンズ」を見た。

最近は映画館でよく映画を見るようになった。

ひとつには映画館という空間が好きになったこと。映画館には適切な空調管理と、携帯電話を切っていてもいいという自分への口実ができるからだ。そういえば30歳になった。30歳の良いところは社会から舐められなくなることで、悪いところはしがらみが増えることだ。しがらみ自体は悪いことではないのだが、意図していない時、空間で連絡が来ることが増えた。僕は連絡をスルーできる性質ではないので映画館という空間は都合がいいのだ。
もうひとつの理由は、いまお付き合いしている方とデートに行くことがあるからだ。その方との初めてのデートはレイトショーだったので、映画館に行くと少し感慨深いものがある。
さて、表題のメリーポピンズだが、当然リバイバル上映になる。会場までの立川の映画館までる前日から宣伝文句である”爆音上映”について少し言い争いなんかをしながら、50年前のディズニー映画ということだけを頭に入れて見に行った。最近はディズニー映画を見る機会が多く、それまでに「In to the woods」と「ノートルダムの鐘」を見ていたので最近のディズニー創作ではなく、原作がしっかりしている作品の映像化にこだわっているディズニーを感じながら見た形となる。ディズニーは鬱陶しかったりうるさい映画もあるが、2作品はとても良かった。ミュージカル台本が優秀なのかもしれないし、ヴィクトルユゴーが良いだけなのかもしれないが、とにかく、良かった。そして、はたしてメリーポピンズも良作だったのである。
メリー・ポピンズは50年前のイギリスが舞台なのだけど、一言で言えば子供への”全肯定”の作品だ。思えば、ディズニーの過去の名作は弱者への肯定を捧げる作品が多いように感じるのだが、いや、”弱者への肯定”ではなく”人間への肯定”だ。”人間性への肯定”がいつしか”弱者への肯定”とニアリーイコールとなってしまった最近の風潮にメリー・ポピンズは誰もが子供だったことを思い出させてくれる。
僕は鑑賞後のさわやかな爽快感を文章に閉じ込めたかったけれど、今はもう無理みたいだ。少し時間がたっているし、ここは映画館ではないからしがらみがたくさんある。「疲れた現代人にオススメ」なんて言葉を使うと商業主義に過ぎるだろう。新作の映画は期待はずれになってしまうかもしれない。
僕はこんなブログを読みに来るようなあなたに鑑賞してほしい。そしてできれば映画館で。

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言葉というもの

言葉というものは厄介だ。ウィトゲンシュタインは「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」と沈黙という手段を用いて語ることなく存在を示すことにしたが、ともあれ言葉に限界があるのだ。
誰もが”ありのまま”の自分を表現したい、見てほしい、という欲求とままならない言葉とで揺れているのではないか。
何も難しいテーマだけではない。例えば、臭い場所があったとする。「〇〇が臭かった」といえばことは足りるはずだが、〇〇が被差別部落地域であった場合、通常この表現は許されない。哲学者のライフワークとは次元は違うが、言葉の持つ性質としてこれは避けられない現象だ。本来の意味とは違う贅肉が付加されうることで、不自由な言葉余計に不自由になる。
文化というのは恐ろしい、享受できるものもあれば、厄介な問題も同時にもたらす。今言葉や表現にはあまりにも贅肉が多い。
芸術や美術や作品作りではその贅肉をあえて無視したり、狭い表現の道をきめ細やかに通ることによって目標に迫っていく。時には大胆で、繊細な舵取りでしかたどり着けないものが人の心を動かす。
言葉は不完全で誤解を生むものだが、それ以外の強力なツールが僕たちには用意されていない。
普段は心を直接に表現すること、されることに後ろ向きな現代人でもダイレクトや繊細な表現に心惹かれるのは人間の性であると思う。
今は表現を抑圧された時代だ。どこかで誰もがその鬱憤を晴らしたいと機会を狙っている。言葉の裏をかいて人の心に迫るような意地の悪さがまかり通っている。芸術家にアマチュアが批評を加えるのだ。

だが、僕はそれは手段として間違っていると思う。正しいあり方は「〇〇は臭いと思う」とはっきり言うことだ。頭に「あそこは差別されがちな地域だけど、そういう意味じゃなくて」と付け加えることも時には必要かもしれないが、僕は不要だと思う。なぜなら、それは差別している人に必要な心の努力であって、本来は不要だからだ。高度に細い表現の道に入り込んでもダイレクトな表現を選んでも、もう表現の受け手側が理解する素養を発揮することは減ってきている。むしろ贅肉を言葉の一部かのような捉え方が横行している。僕は素朴で素直な表現が必要だとおもう。
その結果に誰かの感情に火をつけることになっても僕は言葉で生きていく以上必要なことだと思う。

僕は最大限の努力の中、凡庸な薄っぺらい言葉で生きていくのでなくて、最大限の積み上げでそのままありのままに近い言葉を使っていきたい。

僕は贅肉に精神を与え、自分を空っぽにしたくない。むしろ、贅肉を落とし、率直なコミュニケーションの中で、本来の言葉の力が人間本来の心を取り戻していくのではないのか。

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無題

頭がいいと言われても僕にはそれは不十分で中途半端で何も満たしてくれない。

私にはコンプレックスがある。まぶたの一重と鼻の低さと、あとは、できの悪さだ。そう、僕はできが悪いのだ。
他にもある。昔から足が早くなりたかった。でも早く走れない。小学3年生のときに友達を亡くして、遅くなった。50m走で1秒遅くしてしまった。僕には決定的な出来事だった。
小学生の頃、持久走も走り幅跳びもやったけど、地区大会がせいぜいだった。中学では柔道をやっていた。試合では一回も勝てなかった。勝ちたいという執念がないと言われた。

最終的に僕が憧れた職業があった。それは研究者だ。

はじめは数学者だった。紙とペンで科学をリードする彼らは僕の羨望の的だった。彼らの人間性のアンバランスさにも惚れたし、不可解な生き方に憧れた。ガロアやラマヌジュンの人生を調べて悦に入ったりした。
僕は研究者を目指すことにした。が、勉強の出来はごく普通だったと思う。ただ、結論に至るセンスは他と違っていたと思う。僕が他人と決定的に違うのはそれだ。

数学者ではなくなってしまったけど、今僕は研究者を目指している。

いま、カンファレンスに出れば有名大学の教授の発表を聞くことができるし、自分の研究の相談も乗ってくれる。大学の同期が大学教員になっているし、研究話やまつわるよもやま話もできる。
一方で、僕よりセンスのない先輩が学位をとって研究者なっている。いま僕が必要なのはセンスでも頭の良さでも何でもなく適性なのだと思う。

大学で走るのが速い同期がいた。そいつが走るとドキドキしたし、感動した。でも本人と話したらままならないことが多かったようだった。同期の大学教員も同様でなにか自分の目標との不一致を解消しようとして模索しているようだった。同じようなケースなのだろうか、最近、僕は前にもまして「頭がいい」と言われることが増えた。アカデミックな場でも言ってもらえる。だけど、その言葉をどう受け止めればいいのだろうか、その頭の良さはできの悪さと引き換えにしてしまったのではないか。しかも残念なことに、僕のセンスはどうやら突き抜けそうにないし、それだけを評価してくれる舞台はどうやらなさそうだ。

僕はいま、「頭がいい」自分と卒業が遅れている身分ともてあましたセンスとで、宙に浮いている。

何故浮いているのか、ほしい評価が得られないからだ。僕のほしい評価が得られないままで有頂天になれないからだ。その点で僕は絶望してしまっている。絶望して逃げているのだろうか。

自分は有頂天になれないからすねてしまうようなつまらない人間だったのか。

ある問題で、ディスカッションをする。僕が問題提起をする場合、序の口で「なぜ?」と入る、丁寧に説明をして「そんな切り口があるとは思わなかった、頭がいいね」と言われる。結局、問題意識や、問題の共有はできずに終わってしまう。僕のセンスの結晶は誰に評価してもらえるのだろう。誰と共有できるのだろう。僕は末っ子で相手にしてくれる大人は多かった。話は聞いてくれた。だけど、話を聞いてくれる分だけ「何を考えているかわからない」と言われた。場所を変えて、アカデミックに行っても同じだ。理解はしても評価はくれない。興味はくれない。

簡単だ、自分の独自な性質だからだ。自分で完成するしかないのだ。完成品を出して使ってもらうしかない。

こんな救いのない文章を書きたくなったのは、切なさや、感傷に浸って自分の目標を失わないためだ。郷愁や陳腐な代替物で満足しないためだ。

他人にどう思われてもいい、僕は自分を満足させたい。幼いままの出来の悪かった自分を褒めてあげたい。

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本を読むこと

ショウペンハウエルの「読書について」を再読した。古典として残るべくして残った良書だと思う。
ショウペンハウエルは「筆者と向き合う必要はない」と結論していると記憶しているが、私は、おそらく、彼の主張と同じ意味で、仮想的な筆者を想定している。
私は本を読むとき、仮想化された筆者からの、一方的な主張にされされる自分を感じるのだ。
逆に、本の世界を離れ、リアルな人間に接するとき、双方向に伝達可能な関係においての相互理解の難しさに絶望的になる。
一冊の”本を理解する”ことと、一個の”人間を理解する”ことは段違いに難しい。
しかし、最近は人間も仮想化されているらしい。自分という個人をうまく仮想化し、抽象化し、そして具体化し、さらにわかりやすく加工し、やっとコミュニケーションという舞台に上がることができる。

他人とうまくコミュニケーションをとることのコツはわかりやすい人間になることだ。だが、私は現実を本のように生きて無駄にしたくない。

生き生きとした人間に触れながら、自分もまた、生き生きとした人間でありたい。

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ペブルを買った話

pebbleっていう、型落ちのスマートウォッチを買ったのだけれど、なかなか便利だ。
多分、メーカー保証がもうないからだろうか、新品でジャンク品というよくわかんない商品だった。動作保証しませんだって、全部で5個買ったのだけれど、全部動作しやがって少し持て余している。

この記事が5個のPebbleにたどり着くまで。

これから友達の話をする。
お家にPebbleが5個もあるのはそいつのせいだからだ。ぼくは思うのだけれど、友達はずっと友達でも、いつの間にか連絡しなくなったり、距離ができるものだと思う。その度に人間関係は変化するし、人の成長もあるんだと思う。だけど、pebble5個の威力にかけて、少し形に残しておきたいと思う。

ネットの友達

知り合って、3年ほどになるその友達の関係は恋愛絡みではなくて良い友人だ。僕はあまり変化がないのだけれど、彼女には大きな変化がいくつかあった。妊娠、結婚、子育て、最近二人目が生まれた。はじめの妊娠は学生のうちだった。2度ほどしか会ったことのない人だけど、彼女は確かに友人だ。
僕からすれば、少し特別な経緯がある。

僕の人間関係は淡白だと思う。「縁があれば」って感じだ。だから、その友人がネットの異性の友達(これは僕のことだ。)のことで、彼氏と喧嘩した時も、僕は申し訳なくなってしまって「もう連絡とるのは控えたら?」と言ってしまった。
友人はそれがショックだったようで泣いてしまった。今から考えると少し大げさな気もするが、僕への執着ではなくて、単に友達が少なかったらしい。

ちょうどその頃、友人がパソコンがほしいと言っていたので、僕が修理して家に眠っていたパソコンを送ったことがある。5-6年になる古いノートパソコンだったけれど、
ネットにつなぐ予定はなさそうだったし、DVDが見たいとか、そんな理由だったので十分そうだった。

「パソコンをもらう」これは結構衝撃だったのか、なんとお返しを送ってきた。
小瓶に入った上品そうな良い蜂蜜だった。友人は得意気にその蜂蜜をどこで買ったとか、どんな基準で選んだとか、なんかいっぱい言ってた。紅茶に入れて飲めと言われた。色々とめんどくさい贈り物である。紅茶の葉っぱはついてなかったし。
でも、その蜂蜜を口にして、はたして良い蜂蜜だったようだ。匂いが違ったから。

それから、友人はDVDを見ながらマタニティーと国家試験をこなし、一度デニーズでご飯したり、それから卒業して、子供を産んで、結婚した。それから、赤ちゃんに挨拶しに行ったりした。もう人妻なので、わざわざ女友達と一緒に行った。友人は女友達がほしいので、早く結婚して嫁さんを紹介してねって言ってた。
いくらなんでもそれを基準に結婚するのは無理があるんじゃね?

今年の僕の誕生日に靴下をくれた。理由は「なんだか元気なさそうだったから」だって。
正直、少し落ち込んでていた時期だったので嬉しかった。お返しにカフェインレスの紅茶を送ろうと思っていたけれど、良いのは全部売り切れてて、返せないうちに二人目が生まれたみたいだった。

友人は学校を卒業してしばらくは働くつもりだったのに卒業して二年かそこらのうちに
2児の母になってしまった。色々苦労もあるみたいで、僕は自分の母や、おばちゃんも
「こんな感じだったろうか」って思った。

その頃、ジャンク品の初期型pebbleを自分用に買ったのだけど、すごく便利で、いいなって思ってた。だから、靴下のお返しにpebbleを送ることにしたのだ。旦那さんと友人の二人分。ここらで、旦那さんに無害なただの友達であることをアピールしておきたい。

Pebbleが5個ある訳

僕はPebble が気に入ったので、予備にもう一個買おうかと思ってた。それに二人分送るので、動かないのがいくつかあるかもしれないと思い、4つ買った。ジャンク品?全部動いた。
予備は2つもいらないよね。

終わりに

二児の母は機械音痴だ、だからPebbleの使い方は旦那に教わるだろう。
二児の母は忙しいだろう、だからPebbleがスマホの代わりに通知を出してくれるので、重要な連絡を逃さなくなると思う。
二児の母はパソコンを使えない。DVDはテレビで見れるようになったので、実家のお父さんにあげたらしい。Pebbleはお父さんにあげないでネ。

梱包したけど、まだ発送してない。発送するのってめんどくさいよね。届くの遅れると思うけど、届いたら使ってください。

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32bitUEFIのスティックPCのdebian(64bit)を8から9にアップグレードした話

スティックPC、DG-STK1B でマイクラ鯖を立てた話

この記事の続き。

前回は32bitUEFI環境に64bitlinuxをインストールするに当たって、以下のOSイメージを使えば一発ですよ。という話をした。

http://cdimage.debian.org/cdimage/unofficial/efi-development/jessie-upload3/

同じ状況の方がアップグレードするための話

前回の記事に結構アクセスが来ていて、反応を見ていると楽しかった。スティックPCでWindowsが重くてアップデートできなくなった難民の方や、子供ために固定費を浮かせてマイクラ鯖立てるお父さんとかw
32bitでインストールするのは簡単だけど、ちょうど移行の時期で、64bitじゃないとパフォーマンスが出ないソフトが結構あった。javaのヒープとかね。だからみんなの目に止まったんだと思う。

それから時間は過ぎて、debianのアップデートがきた。debianは結構お硬いイメージのディストリビューションで、パッケージがもろ古いので、早くアップデートしたくて、debianの”unofficial”なパッケージを監視していたが、アナウンスがない。重い腰を上げて調べてみると、stretch(9)では、公式に対応したそうだ。

なので、この状態のままアップグレードを強行することにした。

以下の手順を参照されたい。

無事に再起動できた。

最近はマイクラに飽きてきて、たまにしかサーバーを起動しなくなった。その代わりにwebで使えるIDEをインストールしたので今度はその話をしようかな。

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勉強をすることの意味

勉強ってなんなのだろうか、”学問を身につける”そういう意味での勉強を取り上げる。

世界史未履修問題

88年生まれの世代には聞き覚えのある問題だと思う。はじめはどこかの公立高校で世界史を教えずに単位を認定していたという問題だったのだが、問題が発覚して1週間ほどが経ち、判明した事実はほとんどの進学校で同じような問題が起きていたことだ。それは僕の学校でも例外じゃなかった。

僕の学校の場合

僕の学校の場合は理系の世界史Aの時間を地理に当てていた。当時、文部科学省は高校の過程において世界史を必修にしており、世界史Aの単位が卒業基準に含まれていたようだ。だが、高校ではその時間を地理に当てていて、僕らは受験生の2月と3月に世界史Aを履修することが求められた。
僕は明確に覚えているのだが、当時学校側の説明は以下の3点にまとめられる。

  1. 理系なので地理に時間を当てたほうが良い大学に受験できるだろうということ。
  2. 生徒の皆さんを困らせるつもりはなかった。
  3. 結果的に困らせてしまい申し訳ない。

「なんでも質問をしてください」と言われたので、僕は質問をした。僕は学校側の対応が不思議で仕方なかった。

Q: ( 僕の ) 高校では大学に受験に合格することが目的なんですか?
A: ( 教頭先生 ) はい、そうです。

僕は残念だけど、仕方ないと思った。僕の勉強する目的は他にあったけど、この学校ではそれが受験だったらしい。このニアミスは仕方ない。諦めよう、残念だけど。そう思っていた。だけど、2日後の朝礼で。

A: ( 教頭 ) 先先日は「高校の目的は受験か?」と言われて、そうだと答えたが、間違いだった。この高校では運動会や部活もしている。受験だけが目的ではない。

だそうだ。私は耳を疑った。僕は受験は少し目的だったけれど、運動会が目的で高校に来ていない。「結局、僕の考えていることは伝わっていないのだ。」と僕は考えて、それ以上のコミュニケーションを諦めてしまった。(学校側もフェードアウトを狙っていた。)

今考えるともう少し僕も自分が考えていることを理解してもらう努力をすべきだったと思う。この努力をすることは、結局いつまで経っても慣れないのだが。

つまり僕は学校に勉強しに行っていた。「なんで世界史教えてくれなかったの?勉強したいのに。」ってことだ。だけど、そんな希望はどうやら小さいことだったようだ。

学校の意味

勉強する意味はたかだか”受験”や”テストの点数”に置き換えられてしまっているのが現実だ。高校の意味は部活とか、体育祭とか、あるのだけれど、現実は学校は「勉強だけをする場所ではない」のだ。だけど、僕は真の意味で、”学校は勉強する場所”だと思う。

学問はすごい

シンプルに言う。学問はすごい。だから、学問を身につけることである勉強はやったほうが良い。
なんで学問がすごいかといえば、すべての学問は人間の「なぜ?」に対しての回答を目指しているからだ。勉強をしたということ(勉強ができるではない)は「なぜ?」に対して真摯に向き合ったということだ。つまり自分ときちんと向き合えるということである。
これが勉強ではなく、スポーツや音楽だったりお絵かきだったりする人もいるだろう。(それだって本来は体育、音楽、芸術であり学問なのだが。)仕事もそうかもしれない。それがない人は勉強をするのだ。

勉強しないと、(自分と向き合わないと、)逃げる人生になる。うまくいかないことは全部他人のせいにしてしまう。だけど、学校の勉強が勉強の全てではないから一概には言えないのだが。

勉強する意味

勉強は実は手段だ。身につけた学問は発揮しなければならない。勉強はインプットだからだ。しかし、何かを表現するためには自分に材料がなければいけない。

自分という人間が人生を通して何を表現するのか、
勉強しない人間は知らず知らずに何処かで聞いたような誰かの人生の真似をして終わるのだ。それは舗装された道を初めて歩く気分なのではないか。
勉強した人は勉強しても見当たらなかった自分の個性を表現できるに違いない。それは本当に価値のあることだと思う。

最後に

学校の勉強で学ばないことはいっぱいある。数学だったら位相なんて高校数学じゃ絶対しないし、四元数を見てニヤニヤすることもない。インカ帝国のマニアックなことは勉強しないし、歴史を掘る考古学者の仕事が理解できるわけじゃない。アポロ18号や地球が丸いことが分かっても、風船にカメラを付けて飛ばして地球の丸い写真を撮る方法がわかるわけじゃない。学校で勉強ができなかった人は自分の「なぜ?」を追いかけてみたら良いのだ。
それは絶対役に立つ。
誰かの役ではなくて、自分の役に立つのだ。

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どうにもならないこと

どうにもならないことって山ほどいっぱいある。問題が小さくても大きくても、無い袖は振れないってことだ。

今日はファミレスで後輩とおしゃべりした。そいつが悩んでることはずっと変わらない。だけど僕は素晴らしいと思う。諦観にまみれた大人の戯言なんかより美しいと思う。たとえ現実なる力が不足していても。

世界はきっと”あとひと押し”なことが多いのだ。”あとひと押し”で解決できることが、個人には”どうにもならないこと”としてふりかかってくる。
そんな中でみんな一人ひとり必死に戦っているのに公共の福祉だとか、もっと社会のことを考えようとか言われる。アフリカの貧困のことを考える前に目の前の誰も幸せにできない自分一人に辟易する。そんな中でもそれぐらいの余裕は持っていると勘違いしたいと思う。

そんな中で、”あとひと押し”のスイッチをもった人間が目の前に現れるとどうだろう。人はきっと逆境よりも甘えられる環境にこそ弱い。ゴールまでの距離もわからずに走り出してしまう。そして月日が立つと誰もたどり着けないけど、スイッチを持つ人が住むゴールだけが残って人を腐らせていく。

僕は今日の後輩が社会に出ると、十中八九、考えが変わって、変質してしまって、今日話したことを忘れてしまうだろうと思う。だけど、僕は覚えているのだ。彼が考えていたことや、どうにもできないことに対しての義憤や、その動機を。

写真や、文字や、動画にも残せない記憶の一つとして残しておこうと思う。だけど、自分がスイッチを持っている人間になれたら忘れてしまうかもしれない。他人にとっての”どうにもならないこと”がスイッチひとつのことに見えてしまうかもしれない。

その時、僕という人間はスイッチを押すことの正義に悩めるのだろうか。人間のどうしようもできない、どうにもできない、そんな部分に真摯に対峙できるだろうか。きっとスイッチを持ってしまうと、もっと難しくなるのだ。わからなくなってしまうのだ。

だから今日の出来事を忘れないようにここに書いておこう。

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