32bitUEFIのスティックPCのdebian(64bit)を8から9にアップグレードした話

スティックPC、DG-STK1B でマイクラ鯖を立てた話

この記事の続き。

前回は32bitUEFI環境に64bitlinuxをインストールするに当たって、以下のOSイメージを使えば一発ですよ。という話をした。

http://cdimage.debian.org/cdimage/unofficial/efi-development/jessie-upload3/

同じ状況の方がアップグレードするための話

前回の記事に結構アクセスが来ていて、反応を見ていると楽しかった。スティックPCでWindowsが重くてアップデートできなくなった難民の方や、子供ために固定費を浮かせてマイクラ鯖立てるお父さんとかw
32bitでインストールするのは簡単だけど、ちょうど移行の時期で、64bitじゃないとパフォーマンスが出ないソフトが結構あった。javaのヒープとかね。だからみんなの目に止まったんだと思う。

それから時間は過ぎて、debianのアップデートがきた。debianは結構お硬いイメージのディストリビューションで、パッケージがもろ古いので、早くアップデートしたくて、debianの”unofficial”なパッケージを監視していたが、アナウンスがない。重い腰を上げて調べてみると、stretch(9)では、公式に対応したそうだ。

なので、この状態のままアップグレードを強行することにした。

以下の手順を参照されたい。

##バックアップは真面目に取る
##特にデータベースとファイルは絶対取る
sudo su
##何もでなかったらスルー。
dpkg --get-selections | grep 'hold$'
##何もでなかったらスルー。
dpkg -l | awk '/^rc/ { print $2 }'
##上のコマンドで何か表示されたら以下実行
apt-get purge $(dpkg -l | awk '/^rc/ { print $2 }')
apt-get autoremove
apt-get autoclean
## /etc/apt/sources.list の編集
## jessieをstretchに書き換え
## vimの正規表現を使うなら :/%s/jessie/stretch/ の実行
## 自分で追加した非公式なものは自分で処理する。
vim /etc/apt/sources.list
##以下、エラーすると死ぬので、仮想shellに移動する。
screen #Enter
##アップグレードできないパッケージはアンスコする
apt-get update
apt-get upgrade
apt-get dist-upgrade
##再起動する前にいかのコマンドを実行する
##これは確認のため。
apt-get install grub-efi-ia32 grub-efi-ia32-bin
#再起動する
reboot

無事に再起動できた。

最近はマイクラに飽きてきて、たまにしかサーバーを起動しなくなった。その代わりにwebで使えるIDEをインストールしたので今度はその話をしようかな。

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勉強をすることの意味

勉強ってなんなのだろうか、”学問を身につける”そういう意味での勉強を取り上げる。

世界史未履修問題

88年生まれの世代には聞き覚えのある問題だと思う。はじめはどこかの公立高校で世界史を教えずに単位を認定していたという問題だったのだが、問題が発覚して1週間ほどが経ち、判明した事実はほとんどの進学校で同じような問題が起きていたことだ。それは僕の学校でも例外じゃなかった。

僕の学校の場合

僕の学校の場合は理系の世界史Aの時間を地理に当てていた。当時、文部科学省は高校の過程において世界史を必修にしており、世界史Aの単位が卒業基準に含まれていたようだ。だが、高校ではその時間を地理に当てていて、僕らは受験生の2月と3月に世界史Aを履修することが求められた。
僕は明確に覚えているのだが、当時学校側の説明は以下の3点にまとめられる。

  1. 理系なので地理に時間を当てたほうが良い大学に受験できるだろうということ。
  2. 生徒の皆さんを困らせるつもりはなかった。
  3. 結果的に困らせてしまい申し訳ない。

「なんでも質問をしてください」と言われたので、僕は質問をした。僕は学校側の対応が不思議で仕方なかった。

Q: ( 僕の ) 高校では大学に受験に合格することが目的なんですか?
A: ( 教頭先生 ) はい、そうです。

僕は残念だけど、仕方ないと思った。僕の勉強する目的は他にあったけど、この学校ではそれが受験だったらしい。このニアミスは仕方ない。諦めよう、残念だけど。そう思っていた。だけど、2日後の朝礼で。

A: ( 教頭 ) 先先日は「高校の目的は受験か?」と言われて、そうだと答えたが、間違いだった。この高校では運動会や部活もしている。受験だけが目的ではない。

だそうだ。私は耳を疑った。僕は受験は少し目的だったけれど、運動会が目的で高校に来ていない。「結局、僕の考えていることは伝わっていないのだ。」と僕は考えて、それ以上のコミュニケーションを諦めてしまった。(学校側もフェードアウトを狙っていた。)

今考えるともう少し僕も自分が考えていることを理解してもらう努力をすべきだったと思う。この努力をすることは、結局いつまで経っても慣れないのだが。

つまり僕は学校に勉強しに行っていた。「なんで世界史教えてくれなかったの?勉強したいのに。」ってことだ。だけど、そんな希望はどうやら小さいことだったようだ。

学校の意味

勉強する意味はたかだか”受験”や”テストの点数”に置き換えられてしまっているのが現実だ。高校の意味は部活とか、体育祭とか、あるのだけれど、現実は学校は「勉強だけをする場所ではない」のだ。だけど、僕は真の意味で、”学校は勉強する場所”だと思う。

学問はすごい

シンプルに言う。学問はすごい。だから、学問を身につけることである勉強はやったほうが良い。
なんで学問がすごいかといえば、すべての学問は人間の「なぜ?」に対しての回答を目指しているからだ。勉強をしたということ(勉強ができるではない)は「なぜ?」に対して真摯に向き合ったということだ。つまり自分ときちんと向き合えるということである。
これが勉強ではなく、スポーツや音楽だったりお絵かきだったりする人もいるだろう。(それだって本来は体育、音楽、芸術であり学問なのだが。)仕事もそうかもしれない。それがない人は勉強をするのだ。

勉強しないと、(自分と向き合わないと、)逃げる人生になる。うまくいかないことは全部他人のせいにしてしまう。だけど、学校の勉強が勉強の全てではないから一概には言えないのだが。

勉強する意味

勉強は実は手段だ。身につけた学問は発揮しなければならない。勉強はインプットだからだ。しかし、何かを表現するためには自分に材料がなければいけない。

自分という人間が人生を通して何を表現するのか、
勉強しない人間は知らず知らずに何処かで聞いたような誰かの人生の真似をして終わるのだ。それは舗装された道を初めて歩く気分なのではないか。
勉強した人は勉強しても見当たらなかった自分の個性を表現できるに違いない。それは本当に価値のあることだと思う。

最後に

学校の勉強で学ばないことはいっぱいある。数学だったら位相なんて高校数学じゃ絶対しないし、四元数を見てニヤニヤすることもない。インカ帝国のマニアックなことは勉強しないし、歴史を掘る考古学者の仕事が理解できるわけじゃない。アポロ18号や地球が丸いことが分かっても、風船にカメラを付けて飛ばして地球の丸い写真を撮る方法がわかるわけじゃない。学校で勉強ができなかった人は自分の「なぜ?」を追いかけてみたら良いのだ。
それは絶対役に立つ。
誰かの役ではなくて、自分の役に立つのだ。

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どうにもならないこと

どうにもならないことって山ほどいっぱいある。問題が小さくても大きくても、無い袖は振れないってことだ。

今日はファミレスで後輩とおしゃべりした。そいつが悩んでることはずっと変わらない。だけど僕は素晴らしいと思う。諦観にまみれた大人の戯言なんかより美しいと思う。たとえ現実なる力が不足していても。

世界はきっと”あとひと押し”なことが多いのだ。”あとひと押し”で解決できることが、個人には”どうにもならないこと”としてふりかかってくる。
そんな中でみんな一人ひとり必死に戦っているのに公共の福祉だとか、もっと社会のことを考えようとか言われる。アフリカの貧困のことを考える前に目の前の誰も幸せにできない自分一人に辟易する。そんな中でもそれぐらいの余裕は持っていると勘違いしたいと思う。

そんな中で、”あとひと押し”のスイッチをもった人間が目の前に現れるとどうだろう。人はきっと逆境よりも甘えられる環境にこそ弱い。ゴールまでの距離もわからずに走り出してしまう。そして月日が立つと誰もたどり着けないけど、スイッチを持つ人が住むゴールだけが残って人を腐らせていく。

僕は今日の後輩が社会に出ると、十中八九、考えが変わって、変質してしまって、今日話したことを忘れてしまうだろうと思う。だけど、僕は覚えているのだ。彼が考えていたことや、どうにもできないことに対しての義憤や、その動機を。

写真や、文字や、動画にも残せない記憶の一つとして残しておこうと思う。だけど、自分がスイッチを持っている人間になれたら忘れてしまうかもしれない。他人にとっての”どうにもならないこと”がスイッチひとつのことに見えてしまうかもしれない。

その時、僕という人間はスイッチを押すことの正義に悩めるのだろうか。人間のどうしようもできない、どうにもできない、そんな部分に真摯に対峙できるだろうか。きっとスイッチを持ってしまうと、もっと難しくなるのだ。わからなくなってしまうのだ。

だから今日の出来事を忘れないようにここに書いておこう。

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死んでも代わりは居る?

このブログが話題らしい。

死んでも代わりはいくらでもいるという現実」とタイトルがつけられたそれはなかなか興味深い。
筆者は「上司が死んだと思っているのはその上司の家族だけなのではないだろうか。」と述懐していて、私はなかなか間違ってもいないと思った。
でも、このブログでは、人生が仕事とプライベートに分けられ、仕事に関しては例外はあるものの代わりがいるものだと結論しているようだ。私は、それは間違っていると思う。

人生は仕事とプライベートの二元論か

確かに企業の経済活動は多少の滞折はあっても問題なく進むだろう。だが、それは代替可能な職務というだけだ。むしろ人が死んだくらいで社会が止まってはいけない。だからそういうシステムを人類が作ったと言える。
だが、職務は代替可能だが、人は代替可能ではないのだ。Aさんが作った書類とBさんが作った書類の違いは同じ書類であれば、せいぜい筆跡が違うくらいでフォーマットは同じだろう。それは書類を取り巻くルールが画一化を求めたからだ。かけがいのない仕事は無くなったら困る。誰かでしかできない仕事は少ないほうがいいのだ。でないと社会は混乱してしまう。

何にとっての代わりなのか

私はここに「かけがえのない存在」のミスリードがあると思う。”死んでも困らないから代わりが居る”のと、”同じ人が居るから代わりが居る”のでは全く違う。だから私は思うけれど、死んでも代わりは居るけれど、あなた自身の代わりはいないよと。

本当に意味があるものは目に見えないことが多い。おそらく、企業が管理している社員としてのヒトには代わりなんていくらでも居る。目と鼻と口がついていて脳があって、人間であれば十分だろう。

代わりがない部分は見えにくい

だが、社会の評価が届かない場所に本当の意味は確かに存在している。その人が生きている間、何をして、何を考えて、行動したのか、だ。作った書類に意味は少ない。本当の意味はなぜ誰でも作れる書類を必死に作ったのか、死ぬまで、どういう思いで生きたのか、だ。ここに絶対的な人生の意味がある。決して能力ではないのだ。

だから、変わりいてもかけがえのない個人なのだ。人が死んでから一番大きな意味を持つものは遺書であったり日記だ。日記は自分のために書いて残したものかもしれないが、文字は本来他者に気持ちや事実を伝えるものである。人間は自分の足跡を残したがっている。意味を自分で見つけているものなのだ。代わりがいない仕事をしている人は必死に後継者を探すはずだ。なぜなら代わりがいないと困るからだ。
代わりがいないと困らせて、自分の存在意義を見つけてはいけない。

代わりがあること

僕は代わりのあるものが好きだ。一点物の品物は使いにくい。だけど、文房具は量産品でもずっと使っていると同じものでもなんか違って感じる。これが僕にしかわからない文房具の価値なのだ。

僕はいつも遊んでいる友達が死んだら、しばらくして違う友達と遊ぶことになるけれど、”友達と遊ぶ”構図は同じだけど、友達は別人だ。そういうことなのだ。

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欲しいもの

僕らが”望んでいるもの”。”欲しいもの”。実はそれらは”望まれているもの”、”欲しがられるもの”なのではないか?などと考えてしまう。
実ははじめから”ああしたい”や”こうしたい”には全てパターンがあってそれを夢見ているだけなのではないだろうか。

アポロ計画は月へ上陸を果たした。NASAはついこの間、49光年先の近さにハビタブルゾーンに位置する惑星郡をいくつも見つけた。

最近は僕らを怖がらせる地震も頻発している。

進化の様相も偶然の産物ではなくて本来物質の持つ物性が遺伝子の二重らせんを安定させていることがわかっている。

アメリカも”世界の警察”を引退するかもしれない。

僕らにとって発見であるはずのそれらはもとからあったものばかりだ。
当然、僕らの”ああしたい”や”こうしたい”ももとからあったものたちなのだろう。

そのうち膨大な不可能たちが当たり前の当然となっていくこの世界を受け入れていくことができるのだろうか。

こういったことを何も考えずに図鑑やテレビやニュースを夢中で楽しんでいた時間は少なくなっていくのか。

いや、”できるはずだ”が”どうせできるのだ”に変わる瞬間が一番怖い。

僕らが血を噴き出しながら望んいるのは結果となって固定化していく事実ではなくてそのプロセスの中で得られる価値なはずだ。

アポロ計画もハビタブルゾーンも地震だって遺伝子だってなんだって、どこかの星のより高度な存在からすれば当然の出来事なのかもしれない。だが、そこには関わった人間のドラマがある。

僕らの望んでいるものは、その価値は、大人が当然知っているものであっても、目の前のこどもが夢中になって目をキラキラさせて喜びを表現させながら追い求めていく何かなのではないか?

ロシアのプーチンだって、アメリカのトランプだって、北朝鮮の金正恩だって、小さい頃は目をキラキラさせていたのだろうか。

今、社会が”当然だ”という凶器でみんなの目の中のきらめきを奪っているのではないか。

僕らが本当に望んでいる、欲しいものは、まだ全然実現していない。誰もまだ”当然”にしていない。本気で言えば鼻で笑う人もいるに違いない。だが、本当は世界中の人が熱中して夢中になって追い求めたいはずだ。

僕は人間への評価が肩書やお金や権力ではなく、もちろん肌の色や性別や、育ちではなく、子供の頃に持っていた無垢な魅力で仲良くできると本気で思っている。
だが、これだけは”どうせできる”とは思えない。

どうやらまだ世の中は、予定調和ではない、かといってサイコロでもない、やるべきことが残っている。まだ十分キラキラできる魅力を残しているようだ。

少なくとも僕にとっては。

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wordpress 4.7.0 4.7.1 の脆弱性に関して

すでに公開・公表されている脆弱性に関してです。
日本メディアに関しては以下にアナウンスされています。
https://www.ipa.go.jp/security/ciadr/vul/20170206-wordpress.html

バージョン、4.7.0、4.7.1を使っている方は4.7.2へ至急アップデートを行ってください。

内容はwordpressに備え付けのrestAPIを叩けば記事の内容が勝手に改ざんできるということ。

自動アップデートができていない現象があったので管理者は自分で確認したほうがいいです。

この記事は再現性のレポートになります。POCも公開されています。以下のコード。
https://github.com/linuxsec/pentest/blob/master/ruby/wordpress/41224.rb
rubyコードだけど、WebAPIを叩ければ誰でも単純に実行できます。

すぐにアップデートしましょう。

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有人改札の思い出

今年福井県から有人改札がなくなるらしい(出典)。

私が育った田舎ではまだまだ自動改札は整備されてなかった。Suicaもつい最近の話な気がする。改札の通れるところは2つしかない小さな駅なのに駅員さんがぽつんと立っていて、ぱちぱちと切符をさばいてくれる。
私は自転車通学で電車にのることがなかったのだが、父と一緒に切符を買いに行くことがよくあった。

父の用事で電車にのるので僕には関係ないのだが、ついてこいというのである。小さい頃はついて行くだけで父は切符を自分で買っていたが、小学生高学年になると父は僕に切符を買わせた。父は自営業なので切符を買う時に領収書を貰わなければいけない。僕は父の言われたとおりに「駅名」と「お金」と「領収書」だけを覚えてよく切符を買うようになった。小学生の僕が間違えたら「買い直してこい」と言われ、後に小言を言われた。
今思えば父なりの教育だったのだろうか。僕は駅の切符売り場で「領収書」を学んだし、父が往復で遠くにいくときには「収入印紙」のことも勉強した。父は僕が説明できない時は駅員に聞けと言い、駅員が説明してくれない時はすごい形相で僕にらみ、駅員に怒鳴りに行った。父は例え相手が子供であっても仕事を疎かにしてはいけない。といった。

15年前、最後に父と駅に行ったときのことである。父は、目を細めて遠くの駅員さんを見つめて「ああいう人が僕は好きだ。」といった。その駅員さんは足が義足だった。その時、私は内心で「障害があるからって好きになるのか」と父に反抗した。偽善ではないかと思った。義足の駅員さんはいつまでもその駅で働いていた。何しろ僕が小学生低学年から今もまだ働いているのかもしれない。

時は過ぎ、私は大学に行き、帰省のたびに義足の駅員さんを見かけて僕は「あれが父が好きな駅員だ」と思っていた。そしてある時僕はハッとした。父が好きな駅員さんは仕事が速いのである。移動はもちろん義足のために遅いのだが、切符を売るのから改札のぱちぱちまですべての動作がその駅で一番だった。そういえば、その駅員さんから切符を買う時に僕が叱られたことも駅員さんが叱られたことも一切なかった。父はそれを知っていたのだろうか。この前最後に帰省したとき、自動改札になっていた。改札を通るときの切符のぱちぱちも「こんにちは」も「いってらっしゃい」もなくなっていた。

なんだか世界は”便利”と引き換えにして”なにか”を売り渡しているような気がする。
そのうち切符もなくなってしまったら、僕の知ってる父の好きな駅員さんがしていた仕事はもうなくなってしまうのではないか。
もう僕は今年で29歳だ。小さい頃の原風景が塗りつぶされていく速度が早い。

小さい頃は時間はゆっくりだったのに、今僕が見ているパソコンの画面も誰かにとってはノスタルジーな何かになっているのかもしれない。

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いじめの問題が抱えるジレンマ

最近のいじめ報道に憤慨したのでいじめについての自分の考えを述べる。

”いじめ”とはなんだろうか、現行の日本政府における”いじめ”の定義には少なくとも2つあるようだ。

  1. 文部科学省によるもの

当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的、物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの

  1. 法律(いじめ防止対策推進法、第二条一項)によるもの

児童等に対して、当該児童等が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一定の人的関係にある他の児童等が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものをいう

どうやら、日本政府による”いじめ”の定義には少なくとも以下の要件を含むようだ。

  • 児童であること
  • (判定すべき問題に対して)一定の人間関係が存在すること

だが、私は”いじめ”は児童にのみ存在する問題ではなく、また、加害者のいない”いじめ”も認めるべきと考える。また、一般に犯罪と言われるたぐいの問題やそれに準じる問題とは切り離して考える。例えば、恐喝や、窃盗、詐欺は犯罪である。被害者の感情に客観性がない場合や、年齢による制限や、強制性の判断がつかず、司法によって不起訴や警察が取り扱わない場合でも、被害者にとって明確であれば、私は犯罪と呼ぶ。私は犯罪に対しては大小なりとも加害者にペナルティが課されるべきであると考える。これを求めることに対して、被害者の”暗い感情”は必須ではなく、別の感情であってもかまないしむやみにその動機の拠り所を特定されるべきではない。

”いじめ”に客観性がある場合、つまり誰から見てもいじめと分かる場合については、改善が期待できる。周囲の強制力を持つ存在に頼ればよい。こうした問題について自力での解決を優先することは愚かであると思う。自分の心身に渡る健康を優先すべきだ。

”いじめ”に客観性がなく、主観的である場合、これは直ちに改善が難しい。例えば、ある集団による雰囲気によって醸成されるものがそうだ。こうした問題を放置すれば、進んでいく歴史の中で解決されないと”差別”と名前を変えることになる。”いじめ”は「私だけが我慢すれば」という問題では決してない。解決しない”いじめ”は必ず同じ事象によって苦しむ後輩が現れる。

また、”いじめ”の要件に加害者が必須であるならば”いじめ”が新たに”いじめ”を呼ぶ可能性さえある。そして客観性のない”いじめ”には「いじめを認定する証拠がない」という問題が常に付きまとう。しかも、万が一にでも”いじめ”が誤認された場合、誤認された”いじめ加害者”に対しての精神的苦痛は新たな”いじめ”になりうる。

”いじめ”の問題はこうしたジレンマを常に抱えている。そして”いじめ”の悪魔性がこのジレンマを放置するわけがない。常に”いじめ”はバレないようにひっそりと行われているのだ。

私は解決どころか認知さえされない”いじめ”の方が多数だ。よく他者はいじめられた子に対して「戦わなくても良い、逃げた方がいい」と言う。だが、私は「逃げることも戦いだ」と言いたい。

この未熟な社会は時に浅ましく時に優しく人を育んでいく。一時的に白旗を上げることがあっても知性を持って戦い変えていく他ない。私はそう思う。

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apacheからnginxへ移行した話

もう古い話題なのだが、先日apacheからnginxに移行した。
移行理由はwebサーバーを「let’s note cf-w4」から「DG-STK1B」に移行するにあたりnginx使うか!という安直な発想から。これでシングルコアpenMを卒業したことになる。ふむ。まだまだ使うけどw
そこで、wordpressをいくつか持っているのでこれをnginxで動かすには.htaccessをnginxの設定に変換する必要がある。

そこで以下の構成のwordpresを引っ越す必要があった。

http://domain/
に設置したWordpressと
http://domain/blog/
に設置したWordpressの構成

つまり、マトリョーシカのように入れ子のようになっているわけだが、このnginxの設定が日本語でネット上で見つけれなかったので自分の設定を晒すことにする。”wordpress nginx 入れ子”で検索すると困っている人のブログが上位に出てくるので誰かの参考になればいいなと思います。

nginx歴が2日なので、無駄設定が散見されるかもしれません。ご容赦ください。

ポイントは環境に合わせてlocationをその都度一から書くということでしょうか。domainとblogの文字列は各自環境に変えてください。

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H330でXonar DGXを通して音楽聞くと左右音が反転する話。

僕は未だに lenovo H330 を使っているのだが、2年ほど前にサウンドカードXonar DGXを増設していた。H330のマザーボードとケースは独自規格なので、h330のオーディオのケーブルに互換性がない。そこで、配線ケーブルを使って配列を変換するのだが、その配線が間違っていたのでステレオ音声の左右が間違っていた話です。

配線はこんな感じ

参考にしていた情報はこのブログなのだが、左右の音が逆になるので、レノボのフォーラムを参考にして修正する。

配線したときのメモはtwitterにとってあるので、参考にしたい方は以下のツイートを参考にしてください。

Audioフロントパネル側

xx xx 12 11 10 09 08
07 06 05 xx 03 xx zz

— なにわくん (@naniwarinrin) 2016年12月12日

lenovoマザボ側

09 07 10 11 12
06 zz 05 03 08

— なにわくん (@naniwarinrin) 2016年12月12日

いじょう!

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