死んでも代わりは居る?

このブログが話題らしい。

死んでも代わりはいくらでもいるという現実」とタイトルがつけられたそれはなかなか興味深い。
筆者は「上司が死んだと思っているのはその上司の家族だけなのではないだろうか。」と述懐していて、私はなかなか間違ってもいないと思った。
でも、このブログでは、人生が仕事とプライベートに分けられ、仕事に関しては例外はあるものの代わりがいるものだと結論しているようだ。私は、それは間違っていると思う。

人生は仕事とプライベートの二元論か

確かに企業の経済活動は多少の滞折はあっても問題なく進むだろう。だが、それは代替可能な職務というだけだ。むしろ人が死んだくらいで社会が止まってはいけない。だからそういうシステムを人類が作ったと言える。
だが、職務は代替可能だが、人は代替可能ではないのだ。Aさんが作った書類とBさんが作った書類の違いは同じ書類であれば、せいぜい筆跡が違うくらいでフォーマットは同じだろう。それは書類を取り巻くルールが画一化を求めたからだ。かけがいのない仕事は無くなったら困る。誰かでしかできない仕事は少ないほうがいいのだ。でないと社会は混乱してしまう。

何にとっての代わりなのか

私はここに「かけがえのない存在」のミスリードがあると思う。”死んでも困らないから代わりが居る”のと、”同じ人が居るから代わりが居る”のでは全く違う。だから私は思うけれど、死んでも代わりは居るけれど、あなた自身の代わりはいないよと。

本当に意味があるものは目に見えないことが多い。おそらく、企業が管理している社員としてのヒトには代わりなんていくらでも居る。目と鼻と口がついていて脳があって、人間であれば十分だろう。

代わりがない部分は見えにくい

だが、社会の評価が届かない場所に本当の意味は確かに存在している。その人が生きている間、何をして、何を考えて、行動したのか、だ。作った書類に意味は少ない。本当の意味はなぜ誰でも作れる書類を必死に作ったのか、死ぬまで、どういう思いで生きたのか、だ。ここに絶対的な人生の意味がある。決して能力ではないのだ。

だから、変わりいてもかけがえのない個人なのだ。人が死んでから一番大きな意味を持つものは遺書であったり日記だ。日記は自分のために書いて残したものかもしれないが、文字は本来他者に気持ちや事実を伝えるものである。人間は自分の足跡を残したがっている。意味を自分で見つけているものなのだ。代わりがいない仕事をしている人は必死に後継者を探すはずだ。なぜなら代わりがいないと困るからだ。
代わりがいないと困らせて、自分の存在意義を見つけてはいけない。

代わりがあること

僕は代わりのあるものが好きだ。一点物の品物は使いにくい。だけど、文房具は量産品でもずっと使っていると同じものでもなんか違って感じる。これが僕にしかわからない文房具の価値なのだ。

僕はいつも遊んでいる友達が死んだら、しばらくして違う友達と遊ぶことになるけれど、”友達と遊ぶ”構図は同じだけど、友達は別人だ。そういうことなのだ。

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欲しいもの

僕らが”望んでいるもの”。”欲しいもの”。実はそれらは”望まれているもの”、”欲しがられるもの”なのではないか?などと考えてしまう。
実ははじめから”ああしたい”や”こうしたい”には全てパターンがあってそれを夢見ているだけなのではないだろうか。

アポロ計画は月へ上陸を果たした。NASAはついこの間、49光年先の近さにハビタブルゾーンに位置する惑星郡をいくつも見つけた。

最近は僕らを怖がらせる地震も頻発している。

進化の様相も偶然の産物ではなくて本来物質の持つ物性が遺伝子の二重らせんを安定させていることがわかっている。

アメリカも”世界の警察”を引退するかもしれない。

僕らにとって発見であるはずのそれらはもとからあったものばかりだ。
当然、僕らの”ああしたい”や”こうしたい”ももとからあったものたちなのだろう。

そのうち膨大な不可能たちが当たり前の当然となっていくこの世界を受け入れていくことができるのだろうか。

こういったことを何も考えずに図鑑やテレビやニュースを夢中で楽しんでいた時間は少なくなっていくのか。

いや、”できるはずだ”が”どうせできるのだ”に変わる瞬間が一番怖い。

僕らが血を噴き出しながら望んいるのは結果となって固定化していく事実ではなくてそのプロセスの中で得られる価値なはずだ。

アポロ計画もハビタブルゾーンも地震だって遺伝子だってなんだって、どこかの星のより高度な存在からすれば当然の出来事なのかもしれない。だが、そこには関わった人間のドラマがある。

僕らの望んでいるものは、その価値は、大人が当然知っているものであっても、目の前のこどもが夢中になって目をキラキラさせて喜びを表現させながら追い求めていく何かなのではないか?

ロシアのプーチンだって、アメリカのトランプだって、北朝鮮の金正恩だって、小さい頃は目をキラキラさせていたのだろうか。

今、社会が”当然だ”という凶器でみんなの目の中のきらめきを奪っているのではないか。

僕らが本当に望んでいる、欲しいものは、まだ全然実現していない。誰もまだ”当然”にしていない。本気で言えば鼻で笑う人もいるに違いない。だが、本当は世界中の人が熱中して夢中になって追い求めたいはずだ。

僕は人間への評価が肩書やお金や権力ではなく、もちろん肌の色や性別や、育ちではなく、子供の頃に持っていた無垢な魅力で仲良くできると本気で思っている。
だが、これだけは”どうせできる”とは思えない。

どうやらまだ世の中は、予定調和ではない、かといってサイコロでもない、やるべきことが残っている。まだ十分キラキラできる魅力を残しているようだ。

少なくとも僕にとっては。

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wordpress 4.7.0 4.7.1 の脆弱性に関して

すでに公開・公表されている脆弱性に関してです。
日本メディアに関しては以下にアナウンスされています。
https://www.ipa.go.jp/security/ciadr/vul/20170206-wordpress.html

バージョン、4.7.0、4.7.1を使っている方は4.7.2へ至急アップデートを行ってください。

内容はwordpressに備え付けのrestAPIを叩けば記事の内容が勝手に改ざんできるということ。

自動アップデートができていない現象があったので管理者は自分で確認したほうがいいです。

この記事は再現性のレポートになります。POCも公開されています。以下のコード。
https://github.com/linuxsec/pentest/blob/master/ruby/wordpress/41224.rb
rubyコードだけど、WebAPIを叩ければ誰でも単純に実行できます。

すぐにアップデートしましょう。

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有人改札の思い出

今年福井県から有人改札がなくなるらしい(出典)。

私が育った田舎ではまだまだ自動改札は整備されてなかった。Suicaもつい最近の話な気がする。改札の通れるところは2つしかない小さな駅なのに駅員さんがぽつんと立っていて、ぱちぱちと切符をさばいてくれる。
私は自転車通学で電車にのることがなかったのだが、父と一緒に切符を買いに行くことがよくあった。

父の用事で電車にのるので僕には関係ないのだが、ついてこいというのである。小さい頃はついて行くだけで父は切符を自分で買っていたが、小学生高学年になると父は僕に切符を買わせた。父は自営業なので切符を買う時に領収書を貰わなければいけない。僕は父の言われたとおりに「駅名」と「お金」と「領収書」だけを覚えてよく切符を買うようになった。小学生の僕が間違えたら「買い直してこい」と言われ、後に小言を言われた。
今思えば父なりの教育だったのだろうか。僕は駅の切符売り場で「領収書」を学んだし、父が往復で遠くにいくときには「収入印紙」のことも勉強した。父は僕が説明できない時は駅員に聞けと言い、駅員が説明してくれない時はすごい形相で僕にらみ、駅員に怒鳴りに行った。父は例え相手が子供であっても仕事を疎かにしてはいけない。といった。

15年前、最後に父と駅に行ったときのことである。父は、目を細めて遠くの駅員さんを見つめて「ああいう人が僕は好きだ。」といった。その駅員さんは足が義足だった。その時、私は内心で「障害があるからって好きになるのか」と父に反抗した。偽善ではないかと思った。義足の駅員さんはいつまでもその駅で働いていた。何しろ僕が小学生低学年から今もまだ働いているのかもしれない。

時は過ぎ、私は大学に行き、帰省のたびに義足の駅員さんを見かけて僕は「あれが父が好きな駅員だ」と思っていた。そしてある時僕はハッとした。父が好きな駅員さんは仕事が速いのである。移動はもちろん義足のために遅いのだが、切符を売るのから改札のぱちぱちまですべての動作がその駅で一番だった。そういえば、その駅員さんから切符を買う時に僕が叱られたことも駅員さんが叱られたことも一切なかった。父はそれを知っていたのだろうか。この前最後に帰省したとき、自動改札になっていた。改札を通るときの切符のぱちぱちも「こんにちは」も「いってらっしゃい」もなくなっていた。

なんだか世界は”便利”と引き換えにして”なにか”を売り渡しているような気がする。
そのうち切符もなくなってしまったら、僕の知ってる父の好きな駅員さんがしていた仕事はもうなくなってしまうのではないか。
もう僕は今年で29歳だ。小さい頃の原風景が塗りつぶされていく速度が早い。

小さい頃は時間はゆっくりだったのに、今僕が見ているパソコンの画面も誰かにとってはノスタルジーな何かになっているのかもしれない。

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いじめの問題が抱えるジレンマ

最近のいじめ報道に憤慨したのでいじめについての自分の考えを述べる。

”いじめ”とはなんだろうか、現行の日本政府における”いじめ”の定義には少なくとも2つあるようだ。

  1. 文部科学省によるもの

当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的、物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの

  1. 法律(いじめ防止対策推進法、第二条一項)によるもの

児童等に対して、当該児童等が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一定の人的関係にある他の児童等が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものをいう

どうやら、日本政府による”いじめ”の定義には少なくとも以下の要件を含むようだ。

  • 児童であること
  • (判定すべき問題に対して)一定の人間関係が存在すること

だが、私は”いじめ”は児童にのみ存在する問題ではなく、また、加害者のいない”いじめ”も認めるべきと考える。また、一般に犯罪と言われるたぐいの問題やそれに準じる問題とは切り離して考える。例えば、恐喝や、窃盗、詐欺は犯罪である。被害者の感情に客観性がない場合や、年齢による制限や、強制性の判断がつかず、司法によって不起訴や警察が取り扱わない場合でも、被害者にとって明確であれば、私は犯罪と呼ぶ。私は犯罪に対しては大小なりとも加害者にペナルティが課されるべきであると考える。これを求めることに対して、被害者の”暗い感情”は必須ではなく、別の感情であってもかまないしむやみにその動機の拠り所を特定されるべきではない。

”いじめ”に客観性がある場合、つまり誰から見てもいじめと分かる場合については、改善が期待できる。周囲の強制力を持つ存在に頼ればよい。こうした問題について自力での解決を優先することは愚かであると思う。自分の心身に渡る健康を優先すべきだ。

”いじめ”に客観性がなく、主観的である場合、これは直ちに改善が難しい。例えば、ある集団による雰囲気によって醸成されるものがそうだ。こうした問題を放置すれば、進んでいく歴史の中で解決されないと”差別”と名前を変えることになる。”いじめ”は「私だけが我慢すれば」という問題では決してない。解決しない”いじめ”は必ず同じ事象によって苦しむ後輩が現れる。

また、”いじめ”の要件に加害者が必須であるならば”いじめ”が新たに”いじめ”を呼ぶ可能性さえある。そして客観性のない”いじめ”には「いじめを認定する証拠がない」という問題が常に付きまとう。しかも、万が一にでも”いじめ”が誤認された場合、誤認された”いじめ加害者”に対しての精神的苦痛は新たな”いじめ”になりうる。

”いじめ”の問題はこうしたジレンマを常に抱えている。そして”いじめ”の悪魔性がこのジレンマを放置するわけがない。常に”いじめ”はバレないようにひっそりと行われているのだ。

私は解決どころか認知さえされない”いじめ”の方が多数だ。よく他者はいじめられた子に対して「戦わなくても良い、逃げた方がいい」と言う。だが、私は「逃げることも戦いだ」と言いたい。

この未熟な社会は時に浅ましく時に優しく人を育んでいく。一時的に白旗を上げることがあっても知性を持って戦い変えていく他ない。私はそう思う。

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apacheからnginxへ移行した話

もう古い話題なのだが、先日apacheからnginxに移行した。
移行理由はwebサーバーを「let’s note cf-w4」から「DG-STK1B」に移行するにあたりnginx使うか!という安直な発想から。これでシングルコアpenMを卒業したことになる。ふむ。まだまだ使うけどw
そこで、wordpressをいくつか持っているのでこれをnginxで動かすには.htaccessをnginxの設定に変換する必要がある。

そこで以下の構成のwordpresを引っ越す必要があった。

http://domain/
に設置したWordpressと
http://domain/blog/
に設置したWordpressの構成

つまり、マトリョーシカのように入れ子のようになっているわけだが、このnginxの設定が日本語でネット上で見つけれなかったので自分の設定を晒すことにする。”wordpress nginx 入れ子”で検索すると困っている人のブログが上位に出てくるので誰かの参考になればいいなと思います。

nginx歴が2日なので、無駄設定が散見されるかもしれません。ご容赦ください。

ポイントは環境に合わせてlocationをその都度一から書くということでしょうか。domainとblogの文字列は各自環境に変えてください。

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H330でXonar DGXを通して音楽聞くと左右音が反転する話。

僕は未だに lenovo H330 を使っているのだが、2年ほど前にサウンドカードXonar DGXを増設していた。H330のマザーボードとケースは独自規格なので、h330のオーディオのケーブルに互換性がない。そこで、配線ケーブルを使って配列を変換するのだが、その配線が間違っていたのでステレオ音声の左右が間違っていた話です。

配線はこんな感じ

参考にしていた情報はこのブログなのだが、左右の音が逆になるので、レノボのフォーラムを参考にして修正する。

配線したときのメモはtwitterにとってあるので、参考にしたい方は以下のツイートを参考にしてください。

Audioフロントパネル側

xx xx 12 11 10 09 08
07 06 05 xx 03 xx zz

— なにわくん (@naniwarinrin) 2016年12月12日

lenovoマザボ側

09 07 10 11 12
06 zz 05 03 08

— なにわくん (@naniwarinrin) 2016年12月12日

いじょう!

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言葉に出来ないこと

言葉に出来ないことはたくさんあります。

何かを詳しく知ろうとして、調べてみたら、もっとたくさんのことを知らないと実は知っていることにはならないって事柄がたくさんあります。
いちいち説明の出来ないでもすごく大切なことはいつも丁寧によく隠されていて、覗き見る行動がないとわからないことだったりします。

私の母は今時珍しい主婦です。私の母と暮らしていた時分は食事も洗濯も掃除も全て母の仕事でした。そんな家庭の中から私は18で上京しました。そこで母の凄さを実感した。となればごくごく普通のお話なのですが私はわりと家事はできる方であり、上京して2-3年はきれいな部屋で自分の好きなご飯を食べ割りと満足していました。今の部屋はすごく汚いのですが。

でも風邪を引いたときなどは少し感謝もしたものです。ですが、さいきん少し料理をするようになって思うことがあります。

母への感謝は初めの方は「こんなめんどくさいものを毎日」と思っていました。
その時は、料理は好きでしたがそんなに真面目にはしてなかったんです。基本は母に教えてもらっていたので適当にやればできる感じでした。

ですが、ここ1-2年ほど真面目に料理をしているのです。すると、自分の中で母の毎日への評価が変わってきました。自分の子供に食事を用意するのは、きっと母にとって楽しかったのだろうと思いました。そして少し深く感謝もしたし尊敬もしました。

”美味しいものを食べたい”ということ本当に思ったのはここ最近のことです。美味しいものってみんな食べたくなるのか、それが幸せなことなのか、今度は自分に子供が出来たら自分の料理を食べさせるともっと感謝するのだろうか。

おそらくきっとその時の気持ちは言葉に出来ないのだろう。

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「〜のような気がする」の意味

午後の出来事。配達員が家にやってきました。ドアをどんどんとノックしました。

僕「ピンポンをおしてください。」
配達員「押したけどならなかったので。」
僕(ピンポンを押す)
ピンポン「ピンポーン」
僕「壊れてないみたいだけど、押したけどならなかったの?」
配達員「押しました。」
僕「ピンポンの音は聞こえた?」
配達員「聞こえました。」
僕「ならなかったって言ったやん。」
配達員「押すと聞こえたような気がしました。」
僕「じゃあ僕の耳が音を拾わなかったんやな。」
配達員「いえ、そういうわけではなくて、聞こえたような気がしました。」
僕「とにかく、音がなるならドアを叩く必要はないので、今後はピンポンを押してください。」

さて、僕は配達員は絶対にピンポンを押してないと思っているのだが、それはそれ、これはこれとして、「聞こえたような気がする」の国語の意味がよくわからない。
「気がする」は「そのように感じられる」(出典1)なので、「〜ような」と「気がする」を重ねて使うのは大変にアホな感じさえする。「〜ような」(出典2)は文脈によって意味がかわるらしい。だが、「聞こえたような気がする」の場合、「聞こえた」と「気がする」が「ような」で接続されており、isではない意味が付加されているようだ。つまり、「聞こえた≒そのように感じられる」であるから、「聞こえたような気がする」は聞こえたか聞こえてないかよくわからないということなのではないか?
つまり配達員は以下の主張を繰り返したことになる。

1. (音が)鳴らなかった。
2. (音は)聞こえた。
3. (音は)聞こえたか聞こえなかったかわからない。

これならばまだ「(ピンポンを)押したような気がする」と言ったほうが良い訳としても優秀だろう。

日本語に詳しい人がいたら教えて下さい。この件はtwitterでも受け付けています。
Tweet to @naniwarinrin

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文章を書くということ

私にとって、文章を書くということは少し特殊な行為だ。

基本的に私は娯楽消費者である。世の中のいろいろな角度からたくさんの数の考え方、感じ方に、埋もれて生きていると幸せだと感じるたぐいの人間である。だけれども、その誰かの感情に、あるいは、思想に、ない自分を見つけた時に文章を書きたくたくなる。

文章を書くという時、特にこのような文章を書くとき、伝える相手は宙に浮いてしまって自分の中にしかいない。だけれども、この大変に私的文章を読んでほしい、自分の感じたことで、誰でもいいから影響を与えたい。これは無くしたくないといった場合に限って、私は文章を書く。

だから私の文章の内容はきっと他人と違っているんだと思う。そして、日記としてはすごく平凡なのだ。

誰も同じことを好んで文章にはしないだろう。だから私には文章と向き合うことが必要なのだ。50音から始まり単語と単語、単語の意味、文法的に正しいかどうか、時に文法として逸脱しても表現として認められる感情の発露が必要だった。

私が他人と声に出してはけして言えないことが文章でなら説明できる。
声に出しては薄っぺらくそしてすぐ消えてしまう残響も文章にすると写真のように切り取ることができる。保存できる。

声に出したら「時間の無駄」だとか、「変なこと考えているんだね」とか「難しい」と言われることが文章にするとなんだか綺麗だ。

私は娯楽消費者である。だけれどもそれだけでは悲しい。私は音楽ができなかったので、文章を書いているのだ。コンピューターが見れば、ユニコードの記号の文字列でしかないものの中に意味と価値を認めているのだと思う。

文章の力は2進数の数字に価値を与えていることになる。
文字列の中に自分の分身を密かに隠す行為なのだ。

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