言葉に出来ないこと

言葉に出来ないことはたくさんあります。

何かを詳しく知ろうとして、調べてみたら、もっとたくさんのことを知らないと実は知っていることにはならないって事柄がたくさんあります。
いちいち説明の出来ないでもすごく大切なことはいつも丁寧によく隠されていて、覗き見る行動がないとわからないことだったりします。

私の母は今時珍しい主婦です。私の母と暮らしていた時分は食事も洗濯も掃除も全て母の仕事でした。そんな家庭の中から私は18で上京しました。そこで母の凄さを実感した。となればごくごく普通のお話なのですが私はわりと家事はできる方であり、上京して2-3年はきれいな部屋で自分の好きなご飯を食べ割りと満足していました。今の部屋はすごく汚いのですが。

でも風邪を引いたときなどは少し感謝もしたものです。ですが、さいきん少し料理をするようになって思うことがあります。

母への感謝は初めの方は「こんなめんどくさいものを毎日」と思っていました。
その時は、料理は好きでしたがそんなに真面目にはしてなかったんです。基本は母に教えてもらっていたので適当にやればできる感じでした。

ですが、ここ1-2年ほど真面目に料理をしているのです。すると、自分の中で母の毎日への評価が変わってきました。自分の子供に食事を用意するのは、きっと母にとって楽しかったのだろうと思いました。そして少し深く感謝もしたし尊敬もしました。

”美味しいものを食べたい”ということ本当に思ったのはここ最近のことです。美味しいものってみんな食べたくなるのか、それが幸せなことなのか、今度は自分に子供が出来たら自分の料理を食べさせるともっと感謝するのだろうか。

おそらくきっとその時の気持ちは言葉に出来ないのだろう。

The post 言葉に出来ないこと first appeared on あんなことやこんなこと.

「〜のような気がする」の意味

午後の出来事。配達員が家にやってきました。ドアをどんどんとノックしました。

僕「ピンポンをおしてください。」
配達員「押したけどならなかったので。」
僕(ピンポンを押す)
ピンポン「ピンポーン」
僕「壊れてないみたいだけど、押したけどならなかったの?」
配達員「押しました。」
僕「ピンポンの音は聞こえた?」
配達員「聞こえました。」
僕「ならなかったって言ったやん。」
配達員「押すと聞こえたような気がしました。」
僕「じゃあ僕の耳が音を拾わなかったんやな。」
配達員「いえ、そういうわけではなくて、聞こえたような気がしました。」
僕「とにかく、音がなるならドアを叩く必要はないので、今後はピンポンを押してください。」

さて、僕は配達員は絶対にピンポンを押してないと思っているのだが、それはそれ、これはこれとして、「聞こえたような気がする」の国語の意味がよくわからない。
「気がする」は「そのように感じられる」(出典1)なので、「〜ような」と「気がする」を重ねて使うのは大変にアホな感じさえする。「〜ような」(出典2)は文脈によって意味がかわるらしい。だが、「聞こえたような気がする」の場合、「聞こえた」と「気がする」が「ような」で接続されており、isではない意味が付加されているようだ。つまり、「聞こえた≒そのように感じられる」であるから、「聞こえたような気がする」は聞こえたか聞こえてないかよくわからないということなのではないか?
つまり配達員は以下の主張を繰り返したことになる。

1. (音が)鳴らなかった。
2. (音は)聞こえた。
3. (音は)聞こえたか聞こえなかったかわからない。

これならばまだ「(ピンポンを)押したような気がする」と言ったほうが良い訳としても優秀だろう。

日本語に詳しい人がいたら教えて下さい。この件はtwitterでも受け付けています。
Tweet to @naniwarinrin

The post 「〜のような気がする」の意味 first appeared on あんなことやこんなこと.

文章を書くということ

私にとって、文章を書くということは少し特殊な行為だ。

基本的に私は娯楽消費者である。世の中のいろいろな角度からたくさんの数の考え方、感じ方に、埋もれて生きていると幸せだと感じるたぐいの人間である。だけれども、その誰かの感情に、あるいは、思想に、ない自分を見つけた時に文章を書きたくたくなる。

文章を書くという時、特にこのような文章を書くとき、伝える相手は宙に浮いてしまって自分の中にしかいない。だけれども、この大変に私的文章を読んでほしい、自分の感じたことで、誰でもいいから影響を与えたい。これは無くしたくないといった場合に限って、私は文章を書く。

だから私の文章の内容はきっと他人と違っているんだと思う。そして、日記としてはすごく平凡なのだ。

誰も同じことを好んで文章にはしないだろう。だから私には文章と向き合うことが必要なのだ。50音から始まり単語と単語、単語の意味、文法的に正しいかどうか、時に文法として逸脱しても表現として認められる感情の発露が必要だった。

私が他人と声に出してはけして言えないことが文章でなら説明できる。
声に出しては薄っぺらくそしてすぐ消えてしまう残響も文章にすると写真のように切り取ることができる。保存できる。

声に出したら「時間の無駄」だとか、「変なこと考えているんだね」とか「難しい」と言われることが文章にするとなんだか綺麗だ。

私は娯楽消費者である。だけれどもそれだけでは悲しい。私は音楽ができなかったので、文章を書いているのだ。コンピューターが見れば、ユニコードの記号の文字列でしかないものの中に意味と価値を認めているのだと思う。

文章の力は2進数の数字に価値を与えていることになる。
文字列の中に自分の分身を密かに隠す行為なのだ。

The post 文章を書くということ first appeared on あんなことやこんなこと.

朝顔の意味

「どこかの星に咲いてる一輪の花を愛していたら、夜空を見あげるのは、心のなごむことだよ。星という星ぜんぶに、花が咲いてるように見える。」

「星の王子さま」から(作者:アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ 河野万里子 訳)新潮文庫 p.131

これは小説「星の王子さま」の一節だ。他にも、

「地球の人たちって、ひとつの庭園に、五千もバラを植えてるよ……それなのに、さがしているものを見つけられない……。だけどそれは、たった一本のバラや、ほんの少しの水のなかに、あるのかもしれないよね。」

p121

とか、

「きみのバラをかけがえのないものにしたのは、きみが、バラのために費やした時間だったんだ。人間たちは、こういう真理を忘れてしまった。でもきみは忘れちゃいけない。」

p101

とかって書いてある。いかにもバラという花がフランスの小説らしい。言い方も直接的でなんだか恥ずかしい。私にふさわしいのは朝顔である。

「朝顔や つるべ取られて もらひ水」

(加賀千代)

意味は『井戸で水を汲もうとしたら、朝顔が釣瓶につるを巻きつけていた。朝顔を千切って水を汲んでも良いのだが、それは可哀相なので、隣の家の人に水を貰いにいった。』彼女は35歳に『朝顔に』を『朝顔や』と詠みなおしたそうだ。水を貰いに行ったことよりも朝顔の愛らしさを強調したかったのではないかと言われている。

この加賀千代の俳句は、僕にとっては祖母の辞世の句だ。

朝顔の切り絵のうちわをうっとり眺めながら祖母が詠んだ俳句だった。亡くなる6日ほど前の時、無学だった祖母から聞いた最初で最後の文学だった。

私は悔しかった。苦労続きの90歳を過ぎた祖母が故郷をはなれて遠い土地の病院で亡くなることが。祖母は痴呆だった。夏を越せるかどうかという時に足を骨折した。食事を拒否するようになり、いよいよと覚悟を決めている時だった。どうしてあげることも出来ずに、うちわで祖母を扇いでいた。その病室の出来事だった。

その後、『朝顔は大事にせなあかん』と言った。私には意味がわからなかった。

そして、それから三年が過ぎました。

今、私は自信を持って、その時の後悔を深い尊敬の念に変えることが出来ます。

祖母の人生をかけて愛した『朝顔』は僕の中で強く根を張っています。あなたの生きた証が確かに生きています。

そして、この星の王子さまたちにも、私はバラもいいけれど、朝顔も教えてあげたい。そして無学の祖母が、フランスの場所を多分知らないだろう祖母が、得た人生の結論に頭がさがる思いです。

この話は絶対に忘れないでいよう。そしてうまく説明できるようになろう。

それからサンテックに朝顔を見せてみたい。

The post 朝顔の意味 first appeared on あんなことやこんなこと.

個性ということ

共感は嬉しい。どうやらこの感情は地球上の常識であるようだ。例えば、日本人写真家がアフリカの裸族に混じって裸になると熱烈な歓迎を受けたらしい。
自分と同じ、それは喜ばしいものだろう。

対極にあるものが”みんなと違う”ということである。”みんなと違う”ということは取り扱いが難しい。”私は周りの人と違いますよ”というわかりやすいタグが付いていても(たとえば肌の色や両足がないとか)理解されないことがあるくらいには。

でも私は思うことがある。みんな目をそらしていても”みんなと違う”ものを必ず持っているのだ。そして現代社会はそれを巧妙に隠そうとする。更に自己の”みんなと違う”に対して無自覚になっている。

さて、ここで”個性”というものをピックアップしよう。”個性”とは他者と明確に区別できる独自の本性のことだ。つまり、”みんなと違う”ということだ。ここ最近、”個性”というワードがもてはやされ脚光を浴び、なにか特別なもののように言われている。

私はここに醜いギャップを発見する。一方で”個性”と言い、もてはやしておきながら、”みんなと違う”ものに対しては排他的で無関心を貫く醜悪な心のことだ。

無自覚に自分をみんなと同じと思い、他者の”みんなと違う”を攻撃する―…

こんな構図は身の回りにあふれている。

自己紹介で”みんなと違う”をさらせなくなっている。

だけど、僕は自分の”みんなと違う”が好きだ。理解してくれる人は少ないけれど、他人が理解するためには長い時間をかけて説明しないとダメなんだけれど、それが自分のどうしようもない本性だから。

”みんなと違う”を捨て置かれたり、責められたり、時に攻撃されても、それはかけがえのない個性で、運良く発見された方はひとまず「初めまして」のあいさつと自分の個性を愛してみてほしい。

自分の”みんなと違う”本性の否定ほど苦しいことはないと思う。

そしてこっそりでいいから僕にもあなたの”みんなと違う”をできれば教えてほしい。

The post 個性ということ first appeared on あんなことやこんなこと.

目に見えるものとそこにあるもの

わかりにくいタイトルで申し訳ない。

友人から指摘を受けて目からウロコが落ちたことがある。
それは「言語は比喩である。」と言った言葉だ。この言葉が真であるかは議論をさておいて、僕の感動を伝えたいと思う。その前にタイトルの意味を。

言葉は意味を持つ。これは私の信念であるが、一方で、冷静にただの文字列だと思う冷静な自分もいる。ここで実体というものを仮定したい。実体とは存在そのものと雑に定義しよう。実体を把握すると「目に見えるもの」となり、目に見えないものまでカバーするとあやふやな存在を認め「そこにあるもの」と言える。ここでは実際に目に見えなくても赤外線でもいい、想像でもいい、把握、認識できるものとしよう。

「そこにあるもの」は実際にあるものでもないものでも存在として認めることとしよう。普段我々が言葉で指しているものは厳密には「そこにないもの」だ。近似しているにすぎない。だが、「そこにないもの」でも実際にない「存在」であれば、それは比喩による産物ではないと思っていた。例えば空想上の存在を言葉で定義してしまえば、「そこにあるもの」=「目に見えるもの」が成立する。

だが、友人は「言語は比喩である。」と言った。たとえ話とでも言えるだろうか、であるならば人類は2つの主義に別れるはずだ。

一つは実際にある「そこにあるもの」を何一つ真に知る事ができないという主義。
もう一つは「そこにあるもの」を普段は意識しないがもう知っている(または知る能力を持っている)とする主義だ。

前者と後者の主張は論理的に同価値であるといえる。そしてこの主張はおそらく論理構造を大きく変える価値はないだろう。だが、言葉で紡がれる「そこにあるもの」の意味を大きく変えてしまう。どちらかの主義を選択したその瞬間にそれまであやふやにしていた世界の意味が大きく変質するはずだ。

私は後者の主義を取りたい。なれば、「知る」ことはすでに自分という外郭を広げる行為だ。目の前においてあるりんごは「りんご」という文字列のみならず、その存在は自分の存在とは異なっていても自分の右手とかわらない価値を持つ。

他人の気持ちを知るということはきっとそういうことなのだろう。

この文章はもっと整理して、大幅に書き足して、きちんとした文章にしたい。

多分こんな感じ
図1

The post 目に見えるものとそこにあるもの first appeared on あんなことやこんなこと.

人が良いということ

「人は悪いよりも良い方がいい」

僕の尊敬する方の言葉だ。一般に”人が良い”といえば馬鹿正直と言われたり、損をするような印象がある。”人が良い”とされる条件は他者を信じ、正直で、純真であることだ。だが、この純真さは脆い。悪人に利用されるのが常だ。利用され続けてそれでも平気な人は居ない。心の中で葛藤し自己を維持しているはずである。または、自分は損してもよいとあきらめる必要がある。

だが、私はこのスタンダードな意見に異を唱えたい。これではあまりに寂しすぎる世の中になってしまう。
私は手本とすべき「人は悪いよりも良い方がいい」を自分に当てはめ実現するためには、抜け目なくしたたかであらねばならないと思っている。なぜならば、”人の良さ”は透徹した賢さにさらされて初めて”他者の利益”になるからだ。

言葉は足りないが、忘備録として。

–2016/7/7追記–

葛藤しながら自己を維持し続け、「人のいい」人を諦めていない人に心底から尊敬と拍手を送りたい。だが、「人のいい」人があきらめずにすむように”人のいい為の自己の葛藤”を和らげる人に最も賛辞を送りたい。

The post 人が良いということ first appeared on あんなことやこんなこと.

嫉妬の本質

嫉妬とは難しい言葉だと思う。単純なやきもちだろうか。主に男女の間において使われる気がする。だが、僕はこの言葉が単純な男女間のやきもちではなく、あらゆる人間関係の中に潜んでじっとこっちを見ている気がする。

ひとまず、僕の手にはおえそうにもないブログタイトルだ。僕は人生経験の浅い人間だから、嫉妬という感情を客観的に捉えることが難しい。つまり、自分が嫉妬していることを気が付かないことがままある。そして、それはきっと自分にとって大きな損失だと思う。

ところで、僕は落語が好きなのだが、それとは別に立川談志が好きだ。人間というか、彼の切り口の鮮やかさが好きなのである。それはやはり彼が落語家であるためかもしれない。落語家は心の機微に詳しい。

そんな彼の嫉妬に対する切り口はこうだ。

己が努力、行動を起こさずに対象となる人間の弱みを口であげつらって、自分のレベルまで下げる行為、これを嫉妬と云うんです。

”嫉妬”の本質をついた言葉であると思う。お手本にするような素晴らしい人間に対して”嫉妬”するということは一定の評価を下しているに違いない。だが彼は、高い評価を下しても嫉妬は自分のレベルを下げることだという。自分がお手本に対し努力できるか、愚痴を言うのか、人間は自分より出来た人に対して平静でいれない。この環境に陥った時、自己向上するか、自分を下げるか、ほとんど二者択一しかないように思われる。

殆どの人間には都合のいい言い訳がすでに用意されている。

陰口はばれなければよい。
本人に聞こえないところで喋ればいい。
本人に直接言えば悪口ではない。
心で思うだけならば問題ではない。

だが、本当に大切なことは別にある。心を奪われるほどの相手に対し、心を奪われたままで、自分を見失うことが一番良くない。その刺激は自分に向けるべきだ。有能な相手よりなにかでもいいから勝てるのではないかとか、教えて貰う機会はないかとか、自分で自分を見失い、自分の価値を下げている行為。これを談志は嫉妬と言った。

であるならば、「自分より良くできる人を見てやる気を失う」と言ったことも、「自分より詳しい人がいてファンを辞めた」とかも、嫉妬の一分であるかもしれない。人生を振り返ればその集積は大変なものだ。

赤ちゃんのオギャーから初めて、人間はいくらかあきらめ、可能性をせばめて来たんだろう。僕には”嫉妬”が醜い赤ちゃんに見える。自分から削ぎ落とされた一部が目をそらしてくれない、そんな存在だ。

僕はロスしたくない。これは叫んでもいいほどの本音である。
他人は日常の中にそんな”ロス”を散りばめて賢そうな仮面をかぶっているかもしれない。いっときの気持ちよさの対価に自分の可能性という価値を悪魔に引き渡すかもしれない。それが社会の中で普通なのかもしれない。だが、僕は絶対に嫌だ。

心を奪われても、自分の心を奪い返すのだ。

*この記事は5月16日に加筆修正を行いました。

The post 嫉妬の本質 first appeared on あんなことやこんなこと.

スティックPC、DG-STK1B でマイクラ鯖を立てた話

これは維持費500円/年(電気代)でマイクラ鯖(バニラ)を立てる話です。

ついにドスパラのスティックPCを買った。前から欲しかったのだが、躊躇してたのは三つ。archlinuxのインストール記事が少ないのと値段と用途がなかったからだ。昨年末から1万を切っており、マインクラフトのサーバーを立てたくなったので買った。つまりサーバー用途である。

僕が買ったのは「Diginnos Stick DG-STK1B」である。後継機の「DG-STK3」を買おうと思ったのだが、スペックが対して変わらないのと、店頭で500円安かったのと、キーボードがついてきたからだ。
後継機の方はプラスチックボディらしく、ファンレス金属ボディのほうが良かったと思う。軽量コンパクト化は熱がこもりやすいではないか、うん。と一人で納得した。ドスパラは在庫を無くしたいのだろうか。店頭で9,480円だった。今はもう少し安いかもしれない。

そろそろ本題に入ろう。このPCにはwindows10がプリインストールされているが、USBに回復ドライブを作成したあとさくっと削除した。そしてサーバー運用のために以下の買い物をした。

USB経由で有線ランつなげるやつ

HDMIメスメスコネクタ

コネクタは各自の環境に合わせるとして、内臓のwifiモジュールをlinuxが認識してくれないので、無理に苦労するぐらいならと思って買った。もっと安いのもあると思う。

ということで、Linuxのインストールだが,幾つかのブログにお世話になった。だが、最終的に利用した環境だけのべておく。

http://cdimage.debian.org/cdimage/unofficial/efi-development/jessie-upload3/

で公開されているdebianインストールディスクだ。これを用いるだけで、32bitのUEFIの悪魔から逃れることができる。おそらく,32bitUEFI環境に64bitlinuxをインストールするのは技術的に難しくないのだが、ディストリビューションの思想的なことだったり、UEFIの仕様に従うと難しいようだ。だからパッケージマネージャー管理から外れた運用になってしまうのだが、それは使用し続けることで、サーバーを不安定にしてしまう。上記のurlによる環境はdebian開発者によるものなのでその辺に転がっている怪しいtips寄りは信用できる。一応、インストールできた環境を下にのせておく。

32bit archlinux 安定に稼働する。但し、32bitカーネル
64bit archlinux ハックすれば起動できる。でもする気が起きないほど面倒くさい。
64bit ubuntu ハックすれば起動できる。面倒くさいし、aptが壊れて、不安定になってしまった。
64bit debian 上記のISOで問題なくインストールできる。 Bay Trail-based machines と明確に書かれている。linuxカーネルにもパッチがあたっているらしい。debianなので頻繁なアップデートで壊れることもなさそう。GUIインストーラーで最小構成インストールできる。安定稼働。カーネルは3系。

以上、DG-STK1Bに導入するlinuxの話でしたw

マイクラ導入は癖なく普通のPC通りです。最大7人ぐらいで遊んでいますが、ネザーゲートくぐるときにラグが出るぐらいで他に不便なところはないです。MODいれるような余力はないです。バニラで遊びましょう。バニラで遊ぶにしてもspigotを導入したほうが使用感は軽くてトラブルが少ない印象です。

The post スティックPC、DG-STK1B でマイクラ鯖を立てた話 first appeared on あんなことやこんなこと.

時代を変えるには

よく考えると、”時代を変える”という言葉は詩的である(時代という言葉がそもそも詩的だという指摘もあるかもしれないが)。この文節を文法によって解釈すると、とある年代や時期を変えるということは室町時代に鎌倉時代を持ってくるような事のような気がする。もちろんそうではないのだが。
話を戻そう、私にとって”時代を変える”と”常識を覆す”はほとんどイコールであると言って良い。あくまで私にとってであるが、ひとくちに”時代”といってもその時期の雰囲気や情景まで含めてしまえる言葉なのではないか。そう感じている。

人は不条理や矛盾を感じた時、どうにかしたいと思う。不条理や矛盾していると感じている物事を正しくできればそれが一番良いがなかなかそうはいかない。この気持ちの向き合い方が重要だ。僕は3パターンをここに示したい。

①あきらめる
すごく重要な事だと思う。人生の中で自分にとって重要でないことがらが矛盾していても歯牙にかけない。自分のやることに手を抜かない姿勢の表れでもある気がする。

②時代と向き合う
自分がこれを解決したいと思う矛盾や不条理に対して粘り強く対応していく生き方。素晴らしいがすごく体力のいる仕事だ。

③時代を置いていく
現実のスタンダードのその先を生きる。時代にとらわれずに生きる方法論。

私は”時代を変えるには”②③の生き方が必要不可欠だと考える。実際には②で対応していたことが③となり、その逆もありえるだろうが、自分が変えたい物事に対しては②または③の生き方を貫いていきたい。

一番人間をダメにするのは、自分できた人間の弱点を探しあげつらい自分のレベルまで下げてしまうような嫉妬心であり、これにとらわれて本来の目的を忘れ放蕩してしまうことだ。自分が真の意味で”時代遅れ”となってしまうことだ。
人は矛盾や不条理に対して逃げてしまいがちだ。逃げてしまうと目の前から現実が遠ざかるような錯覚を覚えるが、その実、ひっそりとついてまわり自分から離れることがない。やがてその嫌な”現実”は必要以上に大きくなり、盲目的に責任は自分にはないと喧伝するようになる。こうなれば自分より出来た人をこき下ろすことに執着を出し始める。

現実に乖離しがちな自分への警告として。

The post 時代を変えるには first appeared on あんなことやこんなこと.