私は白鳥 をみた

“私は白鳥”という映画を見てきました。
見たいな~見たいな~と某SNSでつぶやいていたら、一緒に見に行こうよと誘ってくれたので上機嫌で見てきました。
澤江さんという自称白鳥の人間と一羽の手負いの白鳥の物語、澤江さんは白鳥のことをこの人というのだが、そういうところも含めて私はこの映画が好きだ。

よく言われることだが、ノンフィクションはカメラが入った時点で成立しない。ドキュメンタリーもそうだ。編集されて話に筋が付く。
だが、この映画においてはそんな心配はしなくてよい。私は見る人が澤江さんの白鳥への感情を誤解しないか少し心配だ。

おそらく、偏見や先入観を以てこの映画を眺めてしまうと人々は”偏愛”とか”狂気”とか言うんだろう。それは彼の「私は白鳥だ」という言葉を理解していないのだ。
基本的に澤江さんの言葉をたどるだけで彼にとっての白鳥は像を結ぶはずだが、仮に僕が言い足すことを許してくれるなら、白鳥は澤江さんの生きる意味だ。

澤江さんが見つけた生きる意味を私は”偏愛”だとか”狂気”などといえない。
ドキュメンタリーの中で澤江さんは全部を話さない。白鳥について話始めると、はじめはわかりやすく話そうとしてくれるのだが、最後にかけて支離滅裂になり言語が意味を失ってしまう。彼と白鳥の世界は厳密には彼と白鳥のものだけだからだ。
それは、後半、澤江さんがカメラを回すようになって映像で語られる。
我々は白鳥を澤江さんとの関係性を通して理解していくが、彼の映像を見たとき、私たちの理解が全く異なっていたことに気が付く。
彼の説明が支離滅裂なことが彼の説明能力の低さによるものではなく、そもそも言語化できないことを説明しているからだと気が付く。
我々はそもそもすべてを見ることを許されていないのだ。

澤江さんは物語が進むにつれ、澤江さんのすべてを白鳥にぶつけていく。
体もお金も車も睡眠も時には仕事も犠牲にして白鳥にぶつけていく。
それは白鳥が澤江さんの生きる意味だからに他ならない。
白鳥のために病気になり、白鳥のために健康に気を遣う。
彼が生きる意味を見つけたとき、彼の半生のすべてに意味が生まれ白鳥に集約していく。

過酷な白鳥の追いかけは体育会系でないと難しいし、鋭い観察眼、分析力は、学生の頃優秀だったといわれる頭脳だろう。
本人が「心の隙間がどういうわけか白鳥の形をしていたようで」というように、彼は人生のすべてを、命を白鳥の形にして表現していく。

私は物語が進むにつれて澤江さんという白鳥を見た。

白鳥も、澤江さんも、一人ということをドキュメンタリーは強調するが、初めから最後まで白鳥は確かに二羽いたのだ。

垣間見える深い世界はきっとすべての人間が持つものだけど、澤江さんの人柄がそれを必要以上に飾り立てるのを許さず、本質をあらわにする。

だけど、澤江さんは全部を話してくれないからやっぱりちょっとずるい。ずるくて素敵で、ほんのちょっとだけうらやましい。

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