自分を広げて考える

昨日、作業が全然はかどらなかったので自分のブログを読んでいた。
高校時代を回想したそれを読んで、その記録を残したことも高校当時の思い出も感覚もほとんど思い出せたけど、薄くなってぼやけてしまっていた。
昔はそんな感覚が嫌で嫌で絶対に忘れたくなかったのに、いざ自分がおとなになって忙しくなるとこれだ。忘れてしまう。
小さい頃、ガラクタを引き出しに詰めてもう絶対取り出さないと思っても、今ではそこに印鑑や通帳が代わりに紛れ込んでどんぐりの居場所がなくなってしまうように、薄情にも忘れてしまうのだ。

だけど、昨日はそれが切なくなかった。それが感傷にならずにスッと心に落ちてきて収まった感じ。いやちょっと違う。心のなかにあったものを再発見した感じだ。思い出したのとは違う、思い出はなくなりかけているのだから。

今はその文章のことや写真のことを忘れてしまって過去の自分を他人として眺めるようになったとき、自分がどんなことを思うのか興味がある。

ファンタジー作家やブルーハーツは”写真には写らない”というけれど、きっと記憶から消し去っても、自分の中に残る何かをまた見つけることができるように思う。それは過去で見に覚えのない他人の話でも、確かな自分として想起できるとの自信だ。

自分が自分だってことが、記憶じゃない写真じゃないなにか、だけど、直感してわかるってことに自分自身少し驚きながら、それが紛れもない自分なんだって驚く。

赤ちゃんは親指をなめて、なめられている親指、見つめている親指、なめている親指の感覚を同期して親指が自分のものだって認識するらしい。

その延長線上に過去の親指が自分だってどのプロセスで認識できるかなんてえらい哲学者に任せればいい。

今はそれとわかるってことが、認識に自身があるってことが、大事だ。

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