確か横浜線の電車で大泣きしている赤ん坊と、そのお母さんがいた。
そんなに混んでなくて、座席も空いてたけれどお母さんは疲れ切っていてベビーカーを持ちながらうつむいて何もできない様子だった。みんなチラチラ見ていて、誰も迷惑がっていないけれど遠巻きに様子を見ている感じだった。そのとき、少し年配の身なりはキレイとは言えないおじさんが近づいて行って場に緊張が走った。おじさんはお母さんに一声かけると、赤ちゃんを抱きあげて泣き声よりも、とてもとても大きな声で赤ちゃんをあやし始めた。
みんな少し驚いて、でもチラチラ見る目線に温かいものが生まれたと思う。
これは18年前、僕が19歳の頃のお話。
スマホなんてなくてみんな今でいうところのガラケーをパカパカしながら暇をつぶしていたあの頃、だれも異をとなえる人はいなかった。
でも、今こんな話をしたら勝手に子供触られたくないとか、知らない人だから放っておけばとか言われてしまうのかなあって思い出して憂鬱になる。
いまだからわかるのだけど、おじさんはきっとわざと大きな声であやしていた。赤ちゃんもあやされてか、びっくりしてか、静かになっていた。
あの頃のおじさんは18年たった今でも同じようにふるまっているのだろうか。僕が小さい頃、困っている人を助けるのには勇気が必要だって、そういわれた。みんな、おじさんを見るまなざしの中に勇気が灯っていたんじゃないかって、そう思う。
誰かのまなざしの中には、必ず何かがある。
何もないように見えても、ぼんやりと空気を見つめているだけに見えても、内心は過去に遡ったり、未来に希望を抱いたり、自分自身に向き合っているのかもしれない。だけど、あの時、すべてのまなざしの中には、確かに名前も知らないおじさんの姿があった。考えも背景も、抱えているものも、みんな全く違うはずなのに、あの一瞬間、みんな同じ世界にいた。
名前も知らないおじさんの話、僕も名前を知られないありのままの人で在れるように願って。