花を飾ろう

父から譲り受けたmazda2はこの半年で2万キロ走っている。
オニツカタイガーの LAWNSHIP 3.0 を買って、いい靴だから父にも同じものを買おうと思った。最近何もしたいことがないという父に「いい靴はいい場所へ連れて行ってくれる」って言葉を送ろうと思って。父はずっと安い靴を履いていた人だったからもっといい靴を履いたらいいと思っていたけれど、それは叶わなかった。結局、僕はいい靴を履いて父の車が僕をいい場所に連れて行ってくれている。「人の前に明かりを照らしたら自分の前が明るくなる」なんて言葉もあるけれど本当にそうなのかもしれない。父がなんて言ってくれるのだろう、喜んでくれるのだろうか。

父が亡くなった時、僕は母に父は大学を出ていたら優秀な研究者にでもなっていたんじゃないかと言った。そうしたら母は「お父さんは大学に行っていたらきっとつまらない男になっていたと思う。あの人は苦労をしたから価値があったんよ」と言った。言われて初めてその通りだと思う。母は昔、父が競輪ばかりしてずっと家にいるのを見て不安になったらしい。びっしり文字で埋まった予想のノートを見て母は父に投資の仕事を勧めた、そしてそれが父のライフワークになった。僕が小さい頃、父は”経済を作る作家”として経済作家を自称して、陶芸家や画家のように経済を作るんだと言っていた。母はそれを喜んで聞いているようだった。

母方の祖母が亡くなる頃、「朝顔やつるべ取られてもらひ水」と病院で教えてくれた。祖母から聞いた最初で最後の文学だった。細かい意味は別にあったと思うけど、大きくは他者への思いやりを忘れぬようということなのかもしれない。
そんな祖母の初めの子供である母は昨年、母が白いデイジーが気になっていると言っていた。花言葉は平和、希望、無邪気だそうだ。それを思い出して、父の車に一輪挿しを設置した。白いデイジーはなかなか売っていないので時々でかわいいなと思った花を挿している。父の車に母の魂をのせているようで気持ちがいい。そんなわけで最近は花に少し詳しくなった。花屋さんの店員さんにたくさん質問をする、一輪挿しは高くても300円ほどだ。最高の花の授業を聞いているようでなんだかうれしい。切り花でも世話をすれば2週間ほどは元気に咲いている。僕が世話をして飾っている一輪挿しが誰かの目に触れるとき、祖母や母の精神が確かに生きているのだ。まだうまく形に出来ていないけれど、父の精神もどこかで隠しきれない形になって出てくればいいと思っている。

中学生のころ、父が「大人になったらお年玉くれるか?」と聞いた。冗談めかして言っていたと思うけど、それは僕の心に残っている。それはきっと父がいなくなったら母にお年玉ぐらいあげろという意味だったのではないのか。
今年は母にお年玉をあげようと思っている。父が教えてくれた株式投資で得た利益の1割ぐらい。それが今できる父と母への親孝行なんじゃないか。

そんなことを考えながら最近は過ごしている。

祖母が亡くなった時も父が亡くなった時も僕は重要な時にいつもそばにいなくて、死に目には会えなかった。小さい頃、友達がなくなった時もそうだ。みんな魂の抜けたような姿で目の前に現れる。だけど、人はきっと心臓が止まったその瞬間に死ぬのではないと思う。その身を焼かれて骨になった時でもない、体は徐々にゆっくり地球の一部になって、心は周りの人間の一部になっていくのだと思う。そうやって見えなくなってしまうけれど確かに生きている。

30代前半までは自分が独立して食っていけるかとか、研究者になれるかとか、みんなが応援してくれている夢が実現できるのかとか、そういうことが不安だったけれど、今は誰かに何かを残せるような人間になれるのか不安だ。
祖母や父のように人のために何かをできる自分になりたい。

安易な方法じゃなくて、目には見えないけれど気がついたら受け取ってしまっているような贈り物をできる人間に。

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