ゴジラ-1.0 を見て来ました。
そういえば報告しそびれていたけれど、3月の末に退職して、5月の頭から働くようになりました。この辺りの事情は気になる人は直接僕に聞いてください。。
つまり、4月は無職になり、バカンスを謳歌できる時間でした。5kgほど痩せて、体調が整い、部屋も整いました。
思い立って友達に会いに大阪まで車で弾丸往復したり、マッチングアプリの女性とわらび餅を食べに行ったり、いろいろお話はあるが、休暇というものはあっという間に過ぎてしまうものでもう30日である。
なんだかんだ仕事を少しづつ始めていて、前職の間できなかった個人的なテーマやボランティアの仕事を進めた。
全然手につかない場所はあるのだけれど、なんとなくうまくいっているように感じている。
今日、思い立ってゴジラを見てきた。
何か焦ったような気持ち、人生の休暇が終わってしまう!!楽しまないと!!、で駆り立てられたような気持ちになって、見てきた。
ゴジラは痛切に物語がファンタジーであることを意識させる作品だと思う。
ゴジラって何なんだ?ってことが根底のテーマにあり、あるフィクションを示すことで何かを提示する。
「ゴジラ-1.0」示すフィクションは零戦の後継機である『震電の緊急脱出装置』である。物語では時代が浮いているシーンがある。先に示したフィクションとゴジラに取り巻いてガスを発生させる装置が不自然に近代的であることだ。これはCGの予算の問題などではなく、意図してある演出であると思う。つまり、-1.0の舞台は戦後であるものの、アンチゴジラを提示する主体やフィクションは現代であるということだ。
戦中の着陸できない零戦の魂はゴジラとの決着ではなく、緊急脱出装置によって飛び終えるのだ。
そしてゴジラとの決着は誰一人死なせない信念のもと決着する。
人は何かの犠牲になって死んではいけないという、時代の精神を感じる。
情報や格差の分断のみならず、事実や真実まで分断していく現代にゴジラが語り掛けてくるのは命の尊さだ。
我々は様々な隔たりを飛び越えて、暴力によらずにもう一度、平和のために集まることができるかを問われている。
僕はバイデンでもトランプでもいい。脅しと戦争と金による争いを終わらせるリーダーであればだれでもいい。
世界から平和だけを掬い取って希望として提示してほしい。
映画はお金を払って見に行くものだけれど、そうじゃない、日々の中で感じたい。
あんまりよくまとまらないけれど、もう仕事の〆が迫っているし、ここまでにしよう。
将来見返した時にこの文章の答えがより明確に僕の中にあるように祈って。