情景描写で主人公の気持ちを伝えるように、僕らは状況証拠でしか他人の気持ちを推し量れない。
人間のことを小宇宙だと言った人がいたように、人の心は複雑で果てがなく見渡したりなんてできない。
空に懐中電灯を向けるとその光はどんどん進んでいくらしい。光は比類のない速さで地球を脱してどんどん進んでゆく。それでも宇宙の果てには届かないらしい。それは宇宙が光よりも早く膨張しているからだという。
地球が丸くてどこにも真ん中がないように、宇宙には中心がないらしい。
昨日、男はつらいよの映画を見た。本当によくできている映画でシーンのカットの一つ一つが自然で役者は演じているというよりもそのままの顔をしているし、カメラが撮る絵は普遍的な喜怒哀楽を伝えてくる。
でも、僕らが絵の映画の中で生きることができないように、状況証拠からだけではその人自身を再現できない。だからやはり、人は実際に会って顔見て率直に自分の気持ちを伝えなければ理解し合えないのだろう、とそう思う。
他人の中に入ってゴソゴソ手当たり次第に探ってみても心の中心や端っこを探り当てることはできないけれど、見えている心の表層を理解し寄り添って似た気持ちになることができる。
例えば、同じものを食べて「美味しいな」と思うとき、夕日を見て「綺麗だな」と思う、そういう時には他人と同じ心の働きで中心もない端もない概略図すら書けないそんな心の部分を譲り受けたり、与えたりする。
夜空にいろんな色の星が浮かんでいるようにたくさんの人たちの記憶が心に浮かんでそれが自分という人間になっているとわかる。
だから、人は誰かじゃない自分のことを他人を通して理解する。小宇宙に浮かぶ星を見て、何もない場所を同時に見ている。何もない真っ暗な場所にもまだ見つからない自分がいるのだ。
本当に暗い場所に行って星空を見るとそら一面、光っていない場所なんてない。
そんなふうにして自分のことを少しずつ発見してジグソーパズルのピースのように埋めていく。
そんな果てしない作業の向こう側に納得できる自分と、状況証拠じゃないきちんとした証拠が見える誰かがいたらいいな。