人が良いということ

「人は悪いよりも良い方がいい」

僕の尊敬する方の言葉だ。一般に”人が良い”といえば馬鹿正直と言われたり、損をするような印象がある。”人が良い”とされる条件は他者を信じ、正直で、純真であることだ。だが、この純真さは脆い。悪人に利用されるのが常だ。利用され続けてそれでも平気な人は居ない。心の中で葛藤し自己を維持しているはずである。または、自分は損してもよいとあきらめる必要がある。

だが、私はこのスタンダードな意見に異を唱えたい。これではあまりに寂しすぎる世の中になってしまう。
私は手本とすべき「人は悪いよりも良い方がいい」を自分に当てはめ実現するためには、抜け目なくしたたかであらねばならないと思っている。なぜならば、”人の良さ”は透徹した賢さにさらされて初めて”他者の利益”になるからだ。

言葉は足りないが、忘備録として。

–2016/7/7追記–

葛藤しながら自己を維持し続け、「人のいい」人を諦めていない人に心底から尊敬と拍手を送りたい。だが、「人のいい」人があきらめずにすむように”人のいい為の自己の葛藤”を和らげる人に最も賛辞を送りたい。

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嫉妬の本質

嫉妬とは難しい言葉だと思う。単純なやきもちだろうか。主に男女の間において使われる気がする。だが、僕はこの言葉が単純な男女間のやきもちではなく、あらゆる人間関係の中に潜んでじっとこっちを見ている気がする。

ひとまず、僕の手にはおえそうにもないブログタイトルだ。僕は人生経験の浅い人間だから、嫉妬という感情を客観的に捉えることが難しい。つまり、自分が嫉妬していることを気が付かないことがままある。そして、それはきっと自分にとって大きな損失だと思う。

ところで、僕は落語が好きなのだが、それとは別に立川談志が好きだ。人間というか、彼の切り口の鮮やかさが好きなのである。それはやはり彼が落語家であるためかもしれない。落語家は心の機微に詳しい。

そんな彼の嫉妬に対する切り口はこうだ。

己が努力、行動を起こさずに対象となる人間の弱みを口であげつらって、自分のレベルまで下げる行為、これを嫉妬と云うんです。

”嫉妬”の本質をついた言葉であると思う。お手本にするような素晴らしい人間に対して”嫉妬”するということは一定の評価を下しているに違いない。だが彼は、高い評価を下しても嫉妬は自分のレベルを下げることだという。自分がお手本に対し努力できるか、愚痴を言うのか、人間は自分より出来た人に対して平静でいれない。この環境に陥った時、自己向上するか、自分を下げるか、ほとんど二者択一しかないように思われる。

殆どの人間には都合のいい言い訳がすでに用意されている。

陰口はばれなければよい。
本人に聞こえないところで喋ればいい。
本人に直接言えば悪口ではない。
心で思うだけならば問題ではない。

だが、本当に大切なことは別にある。心を奪われるほどの相手に対し、心を奪われたままで、自分を見失うことが一番良くない。その刺激は自分に向けるべきだ。有能な相手よりなにかでもいいから勝てるのではないかとか、教えて貰う機会はないかとか、自分で自分を見失い、自分の価値を下げている行為。これを談志は嫉妬と言った。

であるならば、「自分より良くできる人を見てやる気を失う」と言ったことも、「自分より詳しい人がいてファンを辞めた」とかも、嫉妬の一分であるかもしれない。人生を振り返ればその集積は大変なものだ。

赤ちゃんのオギャーから初めて、人間はいくらかあきらめ、可能性をせばめて来たんだろう。僕には”嫉妬”が醜い赤ちゃんに見える。自分から削ぎ落とされた一部が目をそらしてくれない、そんな存在だ。

僕はロスしたくない。これは叫んでもいいほどの本音である。
他人は日常の中にそんな”ロス”を散りばめて賢そうな仮面をかぶっているかもしれない。いっときの気持ちよさの対価に自分の可能性という価値を悪魔に引き渡すかもしれない。それが社会の中で普通なのかもしれない。だが、僕は絶対に嫌だ。

心を奪われても、自分の心を奪い返すのだ。

*この記事は5月16日に加筆修正を行いました。

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スティックPC、DG-STK1B でマイクラ鯖を立てた話

これは維持費500円/年(電気代)でマイクラ鯖(バニラ)を立てる話です。

ついにドスパラのスティックPCを買った。前から欲しかったのだが、躊躇してたのは三つ。archlinuxのインストール記事が少ないのと値段と用途がなかったからだ。昨年末から1万を切っており、マインクラフトのサーバーを立てたくなったので買った。つまりサーバー用途である。

僕が買ったのは「Diginnos Stick DG-STK1B」である。後継機の「DG-STK3」を買おうと思ったのだが、スペックが対して変わらないのと、店頭で500円安かったのと、キーボードがついてきたからだ。
後継機の方はプラスチックボディらしく、ファンレス金属ボディのほうが良かったと思う。軽量コンパクト化は熱がこもりやすいではないか、うん。と一人で納得した。ドスパラは在庫を無くしたいのだろうか。店頭で9,480円だった。今はもう少し安いかもしれない。

そろそろ本題に入ろう。このPCにはwindows10がプリインストールされているが、USBに回復ドライブを作成したあとさくっと削除した。そしてサーバー運用のために以下の買い物をした。

USB経由で有線ランつなげるやつ

HDMIメスメスコネクタ

コネクタは各自の環境に合わせるとして、内臓のwifiモジュールをlinuxが認識してくれないので、無理に苦労するぐらいならと思って買った。もっと安いのもあると思う。

ということで、Linuxのインストールだが,幾つかのブログにお世話になった。だが、最終的に利用した環境だけのべておく。

http://cdimage.debian.org/cdimage/unofficial/efi-development/jessie-upload3/

で公開されているdebianインストールディスクだ。これを用いるだけで、32bitのUEFIの悪魔から逃れることができる。おそらく,32bitUEFI環境に64bitlinuxをインストールするのは技術的に難しくないのだが、ディストリビューションの思想的なことだったり、UEFIの仕様に従うと難しいようだ。だからパッケージマネージャー管理から外れた運用になってしまうのだが、それは使用し続けることで、サーバーを不安定にしてしまう。上記のurlによる環境はdebian開発者によるものなのでその辺に転がっている怪しいtips寄りは信用できる。一応、インストールできた環境を下にのせておく。

32bit archlinux 安定に稼働する。但し、32bitカーネル
64bit archlinux ハックすれば起動できる。でもする気が起きないほど面倒くさい。
64bit ubuntu ハックすれば起動できる。面倒くさいし、aptが壊れて、不安定になってしまった。
64bit debian 上記のISOで問題なくインストールできる。 Bay Trail-based machines と明確に書かれている。linuxカーネルにもパッチがあたっているらしい。debianなので頻繁なアップデートで壊れることもなさそう。GUIインストーラーで最小構成インストールできる。安定稼働。カーネルは3系。

以上、DG-STK1Bに導入するlinuxの話でしたw

マイクラ導入は癖なく普通のPC通りです。最大7人ぐらいで遊んでいますが、ネザーゲートくぐるときにラグが出るぐらいで他に不便なところはないです。MODいれるような余力はないです。バニラで遊びましょう。バニラで遊ぶにしてもspigotを導入したほうが使用感は軽くてトラブルが少ない印象です。

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時代を変えるには

よく考えると、”時代を変える”という言葉は詩的である(時代という言葉がそもそも詩的だという指摘もあるかもしれないが)。この文節を文法によって解釈すると、とある年代や時期を変えるということは室町時代に鎌倉時代を持ってくるような事のような気がする。もちろんそうではないのだが。
話を戻そう、私にとって”時代を変える”と”常識を覆す”はほとんどイコールであると言って良い。あくまで私にとってであるが、ひとくちに”時代”といってもその時期の雰囲気や情景まで含めてしまえる言葉なのではないか。そう感じている。

人は不条理や矛盾を感じた時、どうにかしたいと思う。不条理や矛盾していると感じている物事を正しくできればそれが一番良いがなかなかそうはいかない。この気持ちの向き合い方が重要だ。僕は3パターンをここに示したい。

①あきらめる
すごく重要な事だと思う。人生の中で自分にとって重要でないことがらが矛盾していても歯牙にかけない。自分のやることに手を抜かない姿勢の表れでもある気がする。

②時代と向き合う
自分がこれを解決したいと思う矛盾や不条理に対して粘り強く対応していく生き方。素晴らしいがすごく体力のいる仕事だ。

③時代を置いていく
現実のスタンダードのその先を生きる。時代にとらわれずに生きる方法論。

私は”時代を変えるには”②③の生き方が必要不可欠だと考える。実際には②で対応していたことが③となり、その逆もありえるだろうが、自分が変えたい物事に対しては②または③の生き方を貫いていきたい。

一番人間をダメにするのは、自分できた人間の弱点を探しあげつらい自分のレベルまで下げてしまうような嫉妬心であり、これにとらわれて本来の目的を忘れ放蕩してしまうことだ。自分が真の意味で”時代遅れ”となってしまうことだ。
人は矛盾や不条理に対して逃げてしまいがちだ。逃げてしまうと目の前から現実が遠ざかるような錯覚を覚えるが、その実、ひっそりとついてまわり自分から離れることがない。やがてその嫌な”現実”は必要以上に大きくなり、盲目的に責任は自分にはないと喧伝するようになる。こうなれば自分より出来た人をこき下ろすことに執着を出し始める。

現実に乖離しがちな自分への警告として。

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読み上げアプリ作ったので公開する。

しょぼい読み上げアプリを作ったのでテンションで公開しようと思う。クリップボードを0.1秒間隔で監視して読み上げるアプリケーションです。棒読みちゃんの設定がややこしいので完全に自分向け。僕はツイキャスの読み上げに使ってます。
動作確認環境は、64bit windows10 だけど、たぶん最新のjavaの環境とクリップボードがあれば動くと思う(未確認)。興味のある人は勝手に使ってくださいという気分です。
また、このアプリケーションは個人が趣味の範囲(いかなる事業, 営利活動とも無関係)で書いたものです。

よみよみちゃん

はじめに

本アプリケーションは、VoiceText Web API に通信して音声を取得、再生するアプリです。記事公開時は個人利用は無料ですが、音声の二次利用は制限されています。また、VoiceText Web API の規約は変更することも予想されます。本アプリケーションは”VoiceText Web API”の規約違反を助長する意図で公開したものではないと宣言しておきます。
また、本アプリケーションを使用したことで不利益を被っても利用者の責任であるものとします。開発者である私は一切の責任を負いません。
また、開発されたコードには、voicetext4jで公開されているコードが含まれています。

インストールの前に

VoiceText Web API の登録とjava(jre)のインストールをしておくこと。

インストール

よみよみちゃんをダウンロードして展開して好きなところに設置してください。そして、VoiceText Web API を登録して得られたAPIキーをkey.txtに書き込んでください。また、java(jre)をインストールしておいてください。以上でインストールは終了です。

使い方

yomiyomi.exeを起動(通常はダブルクリック)してください。ウィンドウの”Start”ボタンでクリップボードの読み上げを開始し、”End”ボタンでアプリケーションを終了します。

起動画面
起動画面

ライセンス

ライセンスは「Apache License, Version 2.0.」とします。近々ソースコードを公開する予定です。

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善意の悪意

これはよくあるような”余計なお世話”とかそういった話ではない。良かれと思ってしたことが悪い事だったとかの話ではない。言い換えるのであれば、”善の気持ちが悪の気持ちだった”ということである。
極端に大げさに言えば、善意の人殺しとかそういったことだ。例えば、毒を薬だと思って処方する医者のようなものだ。
よく言われる”てっきり〇〇だと思った”だとか、”その時はそう思っていた”などの言い訳が通用しないのは、極論すればこういった事象が出てくるからだ。

世間では無料の善意がいいのかもしれない。だが、”ただより高いものはない”という言葉がある。その意味はなにも対価となる時間や不利益のみならず、往々にしてみられる無料に対する責任感のなさに違いない。

だから私は有料であれ、無料であれ、責任感のない善意は信用しない。医者が薬と勘違いして毒を処方するとき、責任感が欠如している場合が圧倒的に多いと見受けられる。私はこれに”悪意”と名付ける。
いま社会の流れは”責任”に対してお金を払わなくなった。所謂、”優しい嘘”などに代表される欺瞞がこれを代表していると思う。

”善意”はあくまで”善”ではない。”善”は人を助けても、”善ではない善意”は容易に人を壊すだろう。人を壊すつもりのなかった”善ではない善意”はこれは”悪”であり、その責任感のなさは”悪意”だ。つまり、善意を自然に善として行使できる人は大変に努力した人間に違いない。

善意は無条件にだれにでも扱えるものでもないということを、私の善意としてここに主張しておきたい。

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PocketMine-MPでPEのバニラ鯖 (v0.13.2) を立てる。

既出の話題かもしれないが、PEのクライアントがv0.13.2にバージョンアップしてから「サーバーが期限切れです」となってしまう。公式(と呼んでいいのかわからないけれど)のアナウンス通りサーバーを立ててもv0.13.1までしか対応していないようなので、PocketMine-MPのgithubから最新のソースを取ってきてインストールしたらいけるんじゃないかと思って試してみました。advanceでのインストールより不安定だと思ってください。

お約束ですが、この記事の文責はなにわにありますが、仮にこの記事通りにしたがってコマンドを実行し、結果なにが起きても僕は一切の責任を取るつもりはありません。

インストール方法は英文でここにあります。多分日本語ページがないからあんまり知られてないのかもしれない。詳しい各環境のインストール方法はリンク先をみてもらうこととして、linuxサーバーにインストールするなら以下のコマンドを実行してください。

git clone https://github.com/PocketMine/PocketMine-MP.git
cd PocketMine-MP/

PHPのバイナリをインストールしてくだい。インストール出来ない人は期限切れになったPocketMine-MPのディレクトリの中のbinディレクトリをコピーしてください。それからいつもどおり立ち上げればいいはず。
cp -r /期限切れのパス/bin .
./start.sh

うまく行けば以下のログが吐き出されるはず。

2
こんな感じのログが出ればおっけ~。

というわけで、しばらく「サーバーの期限切れです」で困っている人は試してみてください。

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理解できないこと

今日は理解できないニュースを読んだ。このニュースだ。

零戦、再び日本の空を舞う!「先人が築いた技術をみよ」 1月27日に鹿児島県鹿屋市で – 産経ニュース

詳細はリンク先を参照してほしい。僕は記事にある石塚さんの個人的な信条による零戦飛行の実現を簡単に否定したくはない。おそらく彼は信念に基づいて防衛省との交渉に臨み自分の財産と信用(スポンサー等の協力)をかけて実現したものであるからだ。そして彼は零戦を”終戦後、二十数年で世界2位の経済大国にのぼりつめた世界最先端の技術”(記事から引用)として認め、先人の技術力が今の日本を築いたとしている。
この石塚さんの心情は彼の個人的なものであるし、彼個人の責任でイベントが行われる以上、簡単に他者から損なわれていいものではない。また、僕はニュースの文面にない苦労もたくさんあったと思う。

だが、このブログでは、僕の歴史観と心情による主張を述べておきたい。
当時の ”世界最先端の技術” は戦争のために準備されたものであった。そして零戦にみられる技術が戦後日本の発展に直接的に寄与していたとは考えにくい。戦後日本は戦闘機を作らず、ジェット機でさえ長らく国産機がなかった。

思うに、戦後の日本の発展には二つの要因があると思う。
アメリカの属国に近い立場だった日本は軍事費にかかる出費が殆ど無く再出発できた点、第2次世界大戦で疲弊した国民が平和を希求していたことである。

以上の主張にもとづいて考えるのであれば、戦後の日本における発展は零戦に端を発したものはなく、また、零戦からは想像だにできなかったに違いない。例えば、機体を極限まで軽くするなどの工夫は戦闘機を前提としたものだった。頭のおかしい技術者でなければ設計できなかったのだ。

確かに、零戦は魅力的な飛行機だと思う。僕は零戦が戦闘機ではなく、国際郵便などを配達する飛行機であればよかったと心から思う。

というわけで、僕はこのニュースがうまく理解できなかった。

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自由に生きること

自由に生きるって難しい。こんなことを考え出すと、自由ってどんな意味だったけ?と迷子になるから不思議だ。こんな時に”自由”って何だ?と調べたくなってしまう(完全に理系脳だ)。でもどんなに日本語が得意な人でもすべての言葉を辞書に頼っているわけじゃない。辞書を引くきっかけなんてそうないんだから、今調べてみようと思う。googleでw

Wikipedia(結局中途半端だ)によると、以下の意味らしい。

自由 (じゆう、英: freedom, liberty)とは、他のものから拘束・支配を受けないで、自己自身の本性に従うことをいう。哲学用語。(Wikipediaにおける”自由”)

哲学用語だそうだ(笑)よくわからなくなってきそうで怖い。純粋な言葉の定義なんて、ものを考えると頭が痛くなってくるので、歴史を追ってみようと思う。まず、”自由”の文字は5世紀までさかのぼれるらしく、「我儘放蕩(わがままほうとう)」の意味であったらしい。”Wikipediaの自由のページ”の初めにある説明と大差ないように感じる。ここで英語の意味を確認してみよう。”liberty”の語源は「社会的・政治的に制約されていない」、なるほどアメリカ独立の象徴になりそうな言葉だ。”freedom”の語源は「好む、愛、気ままさ、傲慢さ」など、いくつかの語源を持つらしい。

どうもすっきりしない。各言語の語源に当たっても僕が思う自由にフィットしないのはなぜだろうか、僕は自由は決してわがままやきままであるだけではなく、いくつかの責任に担保されているものだと感じてしまう。いくつかの言語で、いくつかの語源を持つ言葉が今”じゆう”と呼ばれているものの実際のところは何を指しているのだろうか。僕は自由という言葉が意味を変えて存在し、普遍的(世界共通的)な意味を持っていると思う。

つまり、自由という言葉が人類と共に成長し、新たな価値観を帯びてきているようなのだ。哲学の領域では”じゆう”という言葉が時代を経るごとに定義しなおされ、文化を背景に形を変えながら新しくなってきているようだ。だけど、実際の”じゆう”の変化はテレビなどの急激なメディアの発達によってもたらされたのだろう。故に、日本語の辞書には僕らの感覚から外れるような意味を持つ言葉も少なくない。

長い旅路を歩いてしまったが(笑)、”じゆう”と言われて心に思い浮かぶイメージは言葉にしにくい。だけど、とてつもなく大切なもののように感じる。ここで僕が言いたいのは、決して”自由”という言葉の意味ではなく、”自由”という言葉がさす理想のことである。言葉にしがたい”じゆう”が指し示す意味が明文化されるのであれば、それは意味を持ってしまった価値であって、そこに新しさはなく固定化されてしまう。

まだ見ぬ新しくて素晴らしい価値が”じゆう”には詰まっていて、形にするのは難しいから、「自由に生きることは難しい」とひとまずはしておこう。不自由が示す”じゆう”とでも呼べるかもしれない。

皆さんは形にしたい「じゆう」を持っていますか。不自由も面白いかもしれません。

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頭が良いということ

最近のテーマです。

僕は他人の成績や頭の良さに嫉妬したことがないのだが、他人の頭に嫉妬するのは自分の頭に不満やコンプレックスを抱いているからではないだろうか。

”頭の良さ”は何が原因で決まるのか、頭の良さは身体的な特徴ではない。
ほとんどの人間の脳の重さは同じで、脳に損傷を受けている方でも”頭がいい”とされる人も多いからだ。では、教育の問題だろうか。重要な視点ではあるが、社会のようなグループではなく、自分という個人を考えると、選択できない与えられる教育に考えを馳せてもあまり役に立たない。それに、同じ学校の先生でも、同じ両親でも、頭の良し悪しに差はできるので最大の原因とはいえない。
生まれつき頭の悪い人間は存在しないということだ。

最大の原因はなにかー、僕は意識の差だと思う。

僕には決め事がある。それは、「頭いいんですか?」と聞かれると、「頭は良いほうです!」と返すことだ。

”頭の良さを”を評価するのは他人と自分である。実際に頭の良さを測る物差しなんてないわけだから、他人に評価されないうちは(他人が自分の脳みそに興味を持ってくれないうちは)自己評価で自分の値打ちが決まるといって良い。
もちろん、過大評価になってはいけないが、 自分は頭が良いところがいくつかある この認識をより多く持てる人が本当に賢くなっていく。自分が次の自分を決め、個性を作っていく。

「趣味は何ですか?」「得意なものは何ですか?」と聞かれると、自分より得意な人は大勢いるし、趣味と言えるまで好きじゃないし、とか、頭にブレーキがかかる人が大勢いると思う。これはコンプレックスといって良い。”どうせ自分より優秀な人はいるのだ”というコンプレックスだ。それは初めは謙虚なつもりでも何かのきかっけで、愚痴になり、嫉妬になり、最終的に「自分はできないんだ」という絶望とあきらめに代わる。

本来、「好き」や「得意」な事は自分が感じているだ。他人の目線を感じ、自分を卑下することが自分の脳みそに一番の悪影響を与え、成長する機会を奪っていく。素直に自分の趣味趣向を認められる人が、自分の「好き」や「得意」に、詳しくなっていくのは当然であるし、気が付けばマニアックな領域に入っていくと思う。僕が考える”頭がいい”とはこれである。頭にブレーキをかける人に”頭の良さ”は絶対に来ない。”頭がいい”人には専門分野というか、自分の領域を持っていて、自分のこだわりの上で一番の賢さをそなえていく。これが自信であり個性であると僕は思う。

”頭の良い”人には(僕は頭が良いのでわかるのだが)人間が立体的に見える。見た目(身体的特徴)には表れない人間の凹凸(意識の差)が感じられるはずだ。なぜなら”頭がいい”人がそうだからである。

もうすでに時代は、個性豊かになってきました。特に若い世代は世代論ではくくれないほど多様な内面世界を抱えている人たちであふれています。どうか、責任ある世を動かしている人々には、これが「”頭がいい”人になりたい運動」の前触れだと気が付いてほしい。

そして、意識を持ち始めた人間に「バカだ」とブレーキのスイッチを押さえつけるようなことは控えてくれると嬉しい。その分だけ世界が賢くなっていく。

この記事は2015年12月06日に文章校正を行いました。元記事のリンクはこちら

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