一日たくさんの薬を飲んでいる。
薬って不思議だ。自分にとっていいものを取っているはずなのに何か悪いものを飲んでるんじゃないかって、親に隠れていたずらするような気持ちになる。もともと遺伝性の疾患があったので定時に薬を飲んでいたけど、最近では一日に三回のまなきゃいけない。初めはこそこそ飲んでいたけど、気が滅入ってきたので、堂々と飲むことにした。
薬の粒には人類の英知がつまっている。すごいもん飲んでるんだぞ~~~~~!
あと二週間飲めば一日一回だけになる予定
一日たくさんの薬を飲んでいる。
薬って不思議だ。自分にとっていいものを取っているはずなのに何か悪いものを飲んでるんじゃないかって、親に隠れていたずらするような気持ちになる。もともと遺伝性の疾患があったので定時に薬を飲んでいたけど、最近では一日に三回のまなきゃいけない。初めはこそこそ飲んでいたけど、気が滅入ってきたので、堂々と飲むことにした。
薬の粒には人類の英知がつまっている。すごいもん飲んでるんだぞ~~~~~!
あと二週間飲めば一日一回だけになる予定
今日から世界から愛されて生きよう。
何も我慢したり、誰かに強制されたり、生きるエネルギーに蓋をしなくてもいい。たくさんの好意に包まれて生きよう。そういう風に世界を決めてみよう。
お米の一粒一粒に祈りが込められているように、夜空の星々に名前がついているように、砂漠の砂の一粒一粒が時間の比喩になるように、膨大な空間と果てしない時間の中で生きていることが、愛されていることの証だと今日から決めよう。
人を傷つけてはいけないように、人を喜ばせることが人々の仕事になって、起きてから寝るまで、生まれてから死ぬまで、世界のことも愛すときめよう。
過去も現在もまだ見ぬ未来にも慈愛にみちている。
そういう風に世界を決めよう。
左前庭神経炎って名前の病気になった。
車に乗っていたら急にめまいがして一時的だろうけど、ハザード炊いてコンビニ入るかと思って車を停めたらもう視界がずっと回ったままで立ち上がれなかった。そのまま救急車に乗って点滴で薬を入れて症状を抑えてもらった。
昨日が今日になって専門医にかかり、診断を受けた。酷い症状だけど治りますよ〜、命にも別状はないし、一カ月で治ります。再発もないですよ〜と言ってもらえた。
まっすぐ歩けないぐらいにフラフラだったけれど、運動した方が良いとのことで病院から歩いて帰った。妙な時間に歩いていたからか、小学生たちと一緒になって歩くことになったんだ。
「お車がきているから道路に出ると危ないよ〜」
男の子「んん〜!なんか言った〜??」
「車が向こうに見えるでしょう、車に道をあけてあげないと危ないよ〜」
男の子「わかった!ありがと!あの人はいい人だ!教えてくれた!いい人だ!」
恥ずかしくなってすぐ通り過ぎたけど、それを聞いていた、たくさんの小学生が僕に「こんにちは!」って声をかけてくれた。みんな道にはみ出さないようにしていた。みんなチラチラ僕を見ながら「こんにちは!」「こんにちは!」元気の塊が追いかけてくるみたいに感じた。こんな風景がまだ生きてるんだと思って。
初めに書いた中国語は「一休みはより長い旅のため」最近見た映画での言葉、台湾で有名な言葉らしい。病気で自宅療養になるけど、これも大きな仕事のためだと思おう。
「こんにちは!えらいね!みんなえらいね!」って言いながら道を曲がって家に着いた。みんなにも僕にも大きな旅が待っている。
一言も話せなかったんだけど、かわいいをアイコンにしたみたいな女の子をみた。
彼女に何かできることはないか考えたけど、何にもできなかった。
世界は個人をアイコンに収めてパッケージにして商品化して何が楽しいんだろう。
僕は基本的なマインドとして世界への反骨精神がある。みんなから自由を奪ってのっぺりとした人間にしてお金を回せばいいと思ってる?
今日はとても不思議な一日で、でも変わらず自分が自分らしく居れたからこれでよかったのかな、数億年ぶりにお酒を飲んで酔ってる。
多分最後に酒を飲んでつぶれるように寝たのは金沢の居酒屋だったと思う。あの頃から何にも成長できてない気がする。
僕が他人に気をかけて、優しいと思われるのは自分に甘いからだ。
昔、誰かにみんなはそんなに強くないって言われたことがある。
みんな、夢を追い続けることはできない人が多いし、長い間の貧乏には耐えられないし、寂しさにも耐えられないって。
でも、心のすみっこで一番小さい自分が常につぶやいている。
「じゃあ、頑張って耐えて、何かを得た人はそうじゃない人から妬まれるのは不公平じゃない?その分お金も、世間並みの事も、たくさんしてきたのでは?」
財力や社会的地位の保持には責任が伴うというけれど、行使しない力に責任だけが重くて苦しい。
ずっと少しずつ悲しくて、そして苦しくて、本物の誇りがある。
僕はこの地球をこんなにも愛しているのだから、愛されるべき存在でいてほしい。
どんなに知らない他人でも苦しんでいる人を見るのは苦しい。
目に入ると無視できない、問題はそれに耐えれる精神力が僕に備わっているのか試されているってことだ。
我慢してるだけじゃだめだ。
信頼と信用が欲しい。
少しでもいいから世界を自分の思うように変えたい。
きれいな部分だけ見て生きていたい。
自分の好きなところだけ誰かに見てほしい。
みんなの事を愛せる自分になりたい。
そういえば、台湾の映画を見た、「青春18×2 君へと続く道」ってやつ。
僕が小さいころに感じていた感情が詰まっていて、とても良かった。
今日は久しぶりに飲んで、詰まっている感情があふれているのに声に出せなくて苦しいけど、文字に救われる。
僕はこの世界が好きだからこの世界からきっと愛されている。
そんな自信がある。
心は世界のどこにだって一瞬で飛んでいける。
今年もいろんなところに仕事で行って、旅行にもいって世界の事を知りたい。
いいところも悪いところもきれいなところも汚いところも全部教えて。
全部、心に収めて世界中に連れて行ってあげるから。
ゴジラ-1.0 を見て来ました。
そういえば報告しそびれていたけれど、3月の末に退職して、5月の頭から働くようになりました。この辺りの事情は気になる人は直接僕に聞いてください。。
つまり、4月は無職になり、バカンスを謳歌できる時間でした。5kgほど痩せて、体調が整い、部屋も整いました。
思い立って友達に会いに大阪まで車で弾丸往復したり、マッチングアプリの女性とわらび餅を食べに行ったり、いろいろお話はあるが、休暇というものはあっという間に過ぎてしまうものでもう30日である。
なんだかんだ仕事を少しづつ始めていて、前職の間できなかった個人的なテーマやボランティアの仕事を進めた。
全然手につかない場所はあるのだけれど、なんとなくうまくいっているように感じている。
今日、思い立ってゴジラを見てきた。
何か焦ったような気持ち、人生の休暇が終わってしまう!!楽しまないと!!、で駆り立てられたような気持ちになって、見てきた。
ゴジラは痛切に物語がファンタジーであることを意識させる作品だと思う。
ゴジラって何なんだ?ってことが根底のテーマにあり、あるフィクションを示すことで何かを提示する。
「ゴジラ-1.0」示すフィクションは零戦の後継機である『震電の緊急脱出装置』である。物語では時代が浮いているシーンがある。先に示したフィクションとゴジラに取り巻いてガスを発生させる装置が不自然に近代的であることだ。これはCGの予算の問題などではなく、意図してある演出であると思う。つまり、-1.0の舞台は戦後であるものの、アンチゴジラを提示する主体やフィクションは現代であるということだ。
戦中の着陸できない零戦の魂はゴジラとの決着ではなく、緊急脱出装置によって飛び終えるのだ。
そしてゴジラとの決着は誰一人死なせない信念のもと決着する。
人は何かの犠牲になって死んではいけないという、時代の精神を感じる。
情報や格差の分断のみならず、事実や真実まで分断していく現代にゴジラが語り掛けてくるのは命の尊さだ。
我々は様々な隔たりを飛び越えて、暴力によらずにもう一度、平和のために集まることができるかを問われている。
僕はバイデンでもトランプでもいい。脅しと戦争と金による争いを終わらせるリーダーであればだれでもいい。
世界から平和だけを掬い取って希望として提示してほしい。
映画はお金を払って見に行くものだけれど、そうじゃない、日々の中で感じたい。
あんまりよくまとまらないけれど、もう仕事の〆が迫っているし、ここまでにしよう。
将来見返した時にこの文章の答えがより明確に僕の中にあるように祈って。
100mの世界記録は9秒58なんだって。
この記録を知らなければ世界で一番足の早い人間は村ごとにいたのかもしれない。
9秒58を知って、「超えれる」と考える人と、「超えれない」と考える人がいる。
超えれると考える人たちは変な人らしい。
僕は足は遅いけど、超えれると考える方の人間だ。
だから超えられないのが心地良い人とはうまく行かない。
怒涛の引っ越しが終わり、一段落して僕はどこでも生きていけるのでは。とわかってしまった。
4月は出会いの季節だという、たしかにいろいろな人に合う。
近所のおじさん、大家さん、大家さんの娘さん。
新しいアパートは家賃が4.2万円でオール電化で鉄筋コンクリート造だ。
天井が低いこととシャワーの勢いが悪いこと、それとお湯の温度がデジタルで指定できないこと以外は何もかも揃っていて何もかもいい。
新しい家で、新しい冷蔵庫と玄関を指紋で開けれるようにしてくれるデバイスを取り付けて部屋を掃除した。タイルカーペットを床に敷くのに面倒なところ残して適当に敷いて暮らし始めてしまった。
3月の末から鬱陶しいことが多くて嫌だ。適当な人が適当にやってきて適当に自分の考えていることだけを話してどこかに行く。
名古屋のIMAXで映画見た。オッペンハイマーだ。
なにか、ここで自分のすることが見つかっていないような気がしてイライラする。
全部揃っていて、前より快適なのにイライラする。
イライラしながら全部見た。
明日知り合った人とわらび餅を食べに行くけど、なんで僕は知らない人とわらび餅を食べなきゃいけないんだろう。一人で食べればいいのに。
どうして、どうして、どうして。
何がこんなにも嫌なんだろう。ストレスが足元から這い寄ってきている気がする。
世界から打ち捨てられたような気分になって名古屋の夜を歩いた。
バカみたいに道幅の広い道路の横断歩道を歩いて、知り合いのいない土地は日本でも海外でも変わらないとわかった。
やっぱり僕はどこにでもいける。
世界が小さいことが名古屋に引っ越しただけでわかってしまった。
どこにいてもなにをしてもこのブログをたまに書いて、誰かが読んでるらしい。
名古屋の空港にいってたくさんのういろうを買ってたくさん食べたけれど、全部同じ味だった。
なるほど、僕の舌はういろうをまだ知らないらしい。
こんにちは。
名古屋、はじめまして。
書きたいことはとてもたくさんあるのだけど、引っ越しが大変です。
誰か助けてください。
10日ほど前にweb面接をした。次の職場は名古屋になりそうだ。
正月に免許合宿に行って、一月の末に府中に免許を取りに行った。カーシェアで二回ほど車を借りて運転をしたら一時間もあれば自分の行動範囲が回れることが分かった。
面接の結果が分かったら、引っ越しの準備をして今いる場所を引き払ってやるべきことをしなければならない。
今日録画していた探偵ナイトスクープを見て、モニターの中で「突然走れなくなった女子高校生」が一生懸命走ろうとしていた。専門家や催眠術師、周りの大人がたくさん助言をして、状況は理解できるけど状況はなかなか改善しない。物語はそのあと、訓練をして不格好だけど少し走れるようになって今のところ終わってしまった。走れない女の子は最後には気負いなくコロコロ笑いながら上機嫌で過ごしていてなんだか泣いてしまった。
突然何もできなくなってもそれを受け入れて前向きに過ごしている女の子がそこにはいた。
泣いてしまったのは私にも同じ経験があったからかもしれないし、そうではないかもしれない。
よくある物語では、四畳半って言葉出てくるけれど僕はずっと1kの六畳で過ごしていた。備え付けのコンロなんてなくて五千円で買った一口コンロで何でも作った。人間は環境で決まらないってことを教えてくれたと思う。やる気に満ちて一晩で専門書を読み明かした朝も、やる気が起きず死んだように過ごしたひと月も、一夜漬けで必死作ったダメダメなプレゼン資料も、この部屋が見ていたと思うとなんだかいとおしく思えた。二年前、博士課程を何とか卒業した時、何も考える余裕がなくて静謐とした時間の中で過ごしていた。自分の人生の中であの時間ほど尊いものはなかったと思う。あの時、引っ越さなかったのはこの部屋が好きだったからだ。
免許を取って初めての高速でほったらかし温泉に行った。ほったらかし温泉は学生の頃、友達と一緒に行こうって何回も言っていたけれど行かなかった場所だったけれど、2時間もかからずに到着してこんなもんかっておもった。2時間なんてあの頃、大学から帰り道の分かれ道で少し話していたらすぐなくなってしまうような時間だった。大事なのはどんなにみじめ悲しくても上機嫌でいることだと思う。
できることを少しづつ増やしながら振り返ったらどうやってここまでこれたのか不思議になるような人生がいい。数えきれないほどのステップをこえていく力が人には元々備わっている。結果が大事なのではなくプロセスが大事だと腐るほど聞いたけれど、そこには言葉以上の価値が、可能性が、不思議が詰まっている。新しい職場では教育にはかかわらないけれど、研究を自分らしく頑張って凡人らしい結果しか得られなくても本当に価値のあることがしたい。
僕とかかわった人がそれと気が付かなくてもいい、少しでも自分が不思議で価値のある存在だって思ってほしい。
4月からはたくさん今までやって来なかったことをして、もっとできることを増やしたい。赤ちゃんの頃のように戻って上機嫌でできると思う。
しばらくしたらこの投稿を読み直して思い出そう。
雪を見るといつも不思議だなって思う。
僕は岡山で育ったので、身近に雪がなかったからかもしれない。
雪はなんで街を真っ白にするのだろう。あんなにゆっくりふわふわと落ちてくるのにすぐ何でも全てを真っ白にする。
どんなに洗濯や掃除をしても落ちない汚れや痕跡も全て真っ白にして文明も機能しなくなる。
そのくせ、楽しいときはすぐに溶けてしまっていつまでもグチャグチャ日陰に残っているのだ。
あんなに幻想的で、嫌われていて、好かれている存在はないんじゃないだろうか?
小さい頃は、不思議で珍しくて楽しかった雪の結晶は年齢とともにかすれてなくなっていく。
今は初雪の日だけ心が子供の頃に戻って「ああ、不思議だなあ」って思う。
そして嫌になって、忘れて、また子供に戻れる一瞬を毎年待っている。
去年の19日から福島県に免許合宿に来ている。
僕の運転センスは人並みに下手で頑張ればなんとかついていけるレベルで、絶望的にセンスが無いわけではなって感じだ。そういえば自転車に乗るのにも時間がかかった気がしている。僕は物を暗記したり、新しいことを始めるときには人よりも時間がかかることを思い出した。物事が僕の中に腑に落ちてきちんと仕舞うところが見つかるまでに時間がかかるのだ。ぼんやりと靄のかかった頭で免許の合宿に来て今はクリアになってきている気がしている。
あと3日で卒業できるかもしれないらしい。
そういえば博士課程も9年かかったし、なにかを修めるにあたって誤魔化したりできない性格なのだと思う。
振り返って、自分のことをとても不思議だなあって思う。
今存在していて、こうしてノートパソコンを見つめて文字を追いながらタイプしている自分が不思議だなあって思う。
明日は高速道路の教習なのに明日のことはなにも考えずに雪を見つめながら不思議だなあって思っている。
そういえば、僕の情熱の素は「不思議だなあ」から始まっていた。不思議と思うことは素敵で興味深くて美しい。
雪の一粒一粒を空から拾ってきてポケットに入れておけないみたいに「不思議だなあ」って気持ちもいつもあるのにポケットに入れるみたいにして持っていることはできない。
常に、「不思議だなあ」って思わなきゃ忘れてしまう。
自分を忘れないために毎年雪をみて不思議だなあって思って確かめよう