無題

頭がいいと言われても僕にはそれは不十分で中途半端で何も満たしてくれない。

私にはコンプレックスがある。まぶたの一重と鼻の低さと、あとは、できの悪さだ。そう、僕はできが悪いのだ。
他にもある。昔から足が早くなりたかった。でも早く走れない。小学3年生のときに友達を亡くして、遅くなった。50m走で1秒遅くしてしまった。僕には決定的な出来事だった。
小学生の頃、持久走も走り幅跳びもやったけど、地区大会がせいぜいだった。中学では柔道をやっていた。試合では一回も勝てなかった。勝ちたいという執念がないと言われた。

最終的に僕が憧れた職業があった。それは研究者だ。

はじめは数学者だった。紙とペンで科学をリードする彼らは僕の羨望の的だった。彼らの人間性のアンバランスさにも惚れたし、不可解な生き方に憧れた。ガロアやラマヌジュンの人生を調べて悦に入ったりした。
僕は研究者を目指すことにした。が、勉強の出来はごく普通だったと思う。ただ、結論に至るセンスは他と違っていたと思う。僕が他人と決定的に違うのはそれだ。

数学者ではなくなってしまったけど、今僕は研究者を目指している。

いま、カンファレンスに出れば有名大学の教授の発表を聞くことができるし、自分の研究の相談も乗ってくれる。大学の同期が大学教員になっているし、研究話やまつわるよもやま話もできる。
一方で、僕よりセンスのない先輩が学位をとって研究者なっている。いま僕が必要なのはセンスでも頭の良さでも何でもなく適性なのだと思う。

大学で走るのが速い同期がいた。そいつが走るとドキドキしたし、感動した。でも本人と話したらままならないことが多かったようだった。同期の大学教員も同様でなにか自分の目標との不一致を解消しようとして模索しているようだった。同じようなケースなのだろうか、最近、僕は前にもまして「頭がいい」と言われることが増えた。アカデミックな場でも言ってもらえる。だけど、その言葉をどう受け止めればいいのだろうか、その頭の良さはできの悪さと引き換えにしてしまったのではないか。しかも残念なことに、僕のセンスはどうやら突き抜けそうにないし、それだけを評価してくれる舞台はどうやらなさそうだ。

僕はいま、「頭がいい」自分と卒業が遅れている身分ともてあましたセンスとで、宙に浮いている。

何故浮いているのか、ほしい評価が得られないからだ。僕のほしい評価が得られないままで有頂天になれないからだ。その点で僕は絶望してしまっている。絶望して逃げているのだろうか。

自分は有頂天になれないからすねてしまうようなつまらない人間だったのか。

ある問題で、ディスカッションをする。僕が問題提起をする場合、序の口で「なぜ?」と入る、丁寧に説明をして「そんな切り口があるとは思わなかった、頭がいいね」と言われる。結局、問題意識や、問題の共有はできずに終わってしまう。僕のセンスの結晶は誰に評価してもらえるのだろう。誰と共有できるのだろう。僕は末っ子で相手にしてくれる大人は多かった。話は聞いてくれた。だけど、話を聞いてくれる分だけ「何を考えているかわからない」と言われた。場所を変えて、アカデミックに行っても同じだ。理解はしても評価はくれない。興味はくれない。

簡単だ、自分の独自な性質だからだ。自分で完成するしかないのだ。完成品を出して使ってもらうしかない。

こんな救いのない文章を書きたくなったのは、切なさや、感傷に浸って自分の目標を失わないためだ。郷愁や陳腐な代替物で満足しないためだ。

他人にどう思われてもいい、僕は自分を満足させたい。幼いままの出来の悪かった自分を褒めてあげたい。

本を読むこと

ショウペンハウエルの「読書について」を再読した。古典として残るべくして残った良書だと思う。
ショウペンハウエルは「筆者と向き合う必要はない」と結論していると記憶しているが、私は、おそらく、彼の主張と同じ意味で、仮想的な筆者を想定している。
私は本を読むとき、仮想化された筆者からの、一方的な主張にされされる自分を感じるのだ。
逆に、本の世界を離れ、リアルな人間に接するとき、双方向に伝達可能な関係においての相互理解の難しさに絶望的になる。
一冊の”本を理解する”ことと、一個の”人間を理解する”ことは段違いに難しい。
しかし、最近は人間も仮想化されているらしい。自分という個人をうまく仮想化し、抽象化し、そして具体化し、さらにわかりやすく加工し、やっとコミュニケーションという舞台に上がることができる。

他人とうまくコミュニケーションをとることのコツはわかりやすい人間になることだ。だが、私は現実を本のように生きて無駄にしたくない。

生き生きとした人間に触れながら、自分もまた、生き生きとした人間でありたい。

ペブルを買った話

pebbleっていう、型落ちのスマートウォッチを買ったのだけれど、なかなか便利だ。
多分、メーカー保証がもうないからだろうか、新品でジャンク品というよくわかんない商品だった。動作保証しませんだって、全部で5個買ったのだけれど、全部動作しやがって少し持て余している。

この記事が5個のPebbleにたどり着くまで。

これから友達の話をする。
お家にPebbleが5個もあるのはそいつのせいだからだ。ぼくは思うのだけれど、友達はずっと友達でも、いつの間にか連絡しなくなったり、距離ができるものだと思う。その度に人間関係は変化するし、人の成長もあるんだと思う。だけど、pebble5個の威力にかけて、少し形に残しておきたいと思う。

ネットの友達

知り合って、3年ほどになるその友達の関係は恋愛絡みではなくて良い友人だ。僕はあまり変化がないのだけれど、彼女には大きな変化がいくつかあった。妊娠、結婚、子育て、最近二人目が生まれた。はじめの妊娠は学生のうちだった。2度ほどしか会ったことのない人だけど、彼女は確かに友人だ。
僕からすれば、少し特別な経緯がある。

僕の人間関係は淡白だと思う。「縁があれば」って感じだ。だから、その友人がネットの異性の友達(これは僕のことだ。)のことで、彼氏と喧嘩した時も、僕は申し訳なくなってしまって「もう連絡とるのは控えたら?」と言ってしまった。
友人はそれがショックだったようで泣いてしまった。今から考えると少し大げさな気もするが、僕への執着ではなくて、単に友達が少なかったらしい。

ちょうどその頃、友人がパソコンがほしいと言っていたので、僕が修理して家に眠っていたパソコンを送ったことがある。5-6年になる古いノートパソコンだったけれど、
ネットにつなぐ予定はなさそうだったし、DVDが見たいとか、そんな理由だったので十分そうだった。

「パソコンをもらう」これは結構衝撃だったのか、なんとお返しを送ってきた。
小瓶に入った上品そうな良い蜂蜜だった。友人は得意気にその蜂蜜をどこで買ったとか、どんな基準で選んだとか、なんかいっぱい言ってた。紅茶に入れて飲めと言われた。色々とめんどくさい贈り物である。紅茶の葉っぱはついてなかったし。
でも、その蜂蜜を口にして、はたして良い蜂蜜だったようだ。匂いが違ったから。

それから、友人はDVDを見ながらマタニティーと国家試験をこなし、一度デニーズでご飯したり、それから卒業して、子供を産んで、結婚した。それから、赤ちゃんに挨拶しに行ったりした。もう人妻なので、わざわざ女友達と一緒に行った。友人は女友達がほしいので、早く結婚して嫁さんを紹介してねって言ってた。
いくらなんでもそれを基準に結婚するのは無理があるんじゃね?

今年の僕の誕生日に靴下をくれた。理由は「なんだか元気なさそうだったから」だって。
正直、少し落ち込んでていた時期だったので嬉しかった。お返しにカフェインレスの紅茶を送ろうと思っていたけれど、良いのは全部売り切れてて、返せないうちに二人目が生まれたみたいだった。

友人は学校を卒業してしばらくは働くつもりだったのに卒業して二年かそこらのうちに
2児の母になってしまった。色々苦労もあるみたいで、僕は自分の母や、おばちゃんも
「こんな感じだったろうか」って思った。

その頃、ジャンク品の初期型pebbleを自分用に買ったのだけど、すごく便利で、いいなって思ってた。だから、靴下のお返しにpebbleを送ることにしたのだ。旦那さんと友人の二人分。ここらで、旦那さんに無害なただの友達であることをアピールしておきたい。

Pebbleが5個ある訳

僕はPebble が気に入ったので、予備にもう一個買おうかと思ってた。それに二人分送るので、動かないのがいくつかあるかもしれないと思い、4つ買った。ジャンク品?全部動いた。
予備は2つもいらないよね。

終わりに

二児の母は機械音痴だ、だからPebbleの使い方は旦那に教わるだろう。
二児の母は忙しいだろう、だからPebbleがスマホの代わりに通知を出してくれるので、重要な連絡を逃さなくなると思う。
二児の母はパソコンを使えない。DVDはテレビで見れるようになったので、実家のお父さんにあげたらしい。Pebbleはお父さんにあげないでネ。

梱包したけど、まだ発送してない。発送するのってめんどくさいよね。届くの遅れると思うけど、届いたら使ってください。

32bitUEFIのスティックPCのdebian(64bit)を8から9にアップグレードした話

スティックPC、DG-STK1B でマイクラ鯖を立てた話

この記事の続き。

前回は32bitUEFI環境に64bitlinuxをインストールするに当たって、以下のOSイメージを使えば一発ですよ。という話をした。

http://cdimage.debian.org/cdimage/unofficial/efi-development/jessie-upload3/

同じ状況の方がアップグレードするための話

前回の記事に結構アクセスが来ていて、反応を見ていると楽しかった。スティックPCでWindowsが重くてアップデートできなくなった難民の方や、子供ために固定費を浮かせてマイクラ鯖立てるお父さんとかw
32bitでインストールするのは簡単だけど、ちょうど移行の時期で、64bitじゃないとパフォーマンスが出ないソフトが結構あった。javaのヒープとかね。だからみんなの目に止まったんだと思う。

それから時間は過ぎて、debianのアップデートがきた。debianは結構お硬いイメージのディストリビューションで、パッケージがもろ古いので、早くアップデートしたくて、debianの”unofficial”なパッケージを監視していたが、アナウンスがない。重い腰を上げて調べてみると、stretch(9)では、公式に対応したそうだ。

なので、この状態のままアップグレードを強行することにした。

以下の手順を参照されたい。

無事に再起動できた。

最近はマイクラに飽きてきて、たまにしかサーバーを起動しなくなった。その代わりにwebで使えるIDEをインストールしたので今度はその話をしようかな。

勉強をすることの意味

勉強ってなんなのだろうか、”学問を身につける”そういう意味での勉強を取り上げる。

世界史未履修問題

88年生まれの世代には聞き覚えのある問題だと思う。はじめはどこかの公立高校で世界史を教えずに単位を認定していたという問題だったのだが、問題が発覚して1週間ほどが経ち、判明した事実はほとんどの進学校で同じような問題が起きていたことだ。それは僕の学校でも例外じゃなかった。

僕の学校の場合

僕の学校の場合は理系の世界史Aの時間を地理に当てていた。当時、文部科学省は高校の過程において世界史を必修にしており、世界史Aの単位が卒業基準に含まれていたようだ。だが、高校ではその時間を地理に当てていて、僕らは受験生の2月と3月に世界史Aを履修することが求められた。
僕は明確に覚えているのだが、当時学校側の説明は以下の3点にまとめられる。

  1. 理系なので地理に時間を当てたほうが良い大学に受験できるだろうということ。
  2. 生徒の皆さんを困らせるつもりはなかった。
  3. 結果的に困らせてしまい申し訳ない。

「なんでも質問をしてください」と言われたので、僕は質問をした。僕は学校側の対応が不思議で仕方なかった。

Q: ( 僕の ) 高校では大学に受験に合格することが目的なんですか?
A: ( 教頭先生 ) はい、そうです。

僕は残念だけど、仕方ないと思った。僕の勉強する目的は他にあったけど、この学校ではそれが受験だったらしい。このニアミスは仕方ない。諦めよう、残念だけど。そう思っていた。だけど、2日後の朝礼で。

A: ( 教頭 ) 先先日は「高校の目的は受験か?」と言われて、そうだと答えたが、間違いだった。この高校では運動会や部活もしている。受験だけが目的ではない。

だそうだ。私は耳を疑った。僕は受験は少し目的だったけれど、運動会が目的で高校に来ていない。「結局、僕の考えていることは伝わっていないのだ。」と僕は考えて、それ以上のコミュニケーションを諦めてしまった。(学校側もフェードアウトを狙っていた。)

今考えるともう少し僕も自分が考えていることを理解してもらう努力をすべきだったと思う。この努力をすることは、結局いつまで経っても慣れないのだが。

つまり僕は学校に勉強しに行っていた。「なんで世界史教えてくれなかったの?勉強したいのに。」ってことだ。だけど、そんな希望はどうやら小さいことだったようだ。

学校の意味

勉強する意味はたかだか”受験”や”テストの点数”に置き換えられてしまっているのが現実だ。高校の意味は部活とか、体育祭とか、あるのだけれど、現実は学校は「勉強だけをする場所ではない」のだ。だけど、僕は真の意味で、”学校は勉強する場所”だと思う。

学問はすごい

シンプルに言う。学問はすごい。だから、学問を身につけることである勉強はやったほうが良い。
なんで学問がすごいかといえば、すべての学問は人間の「なぜ?」に対しての回答を目指しているからだ。勉強をしたということ(勉強ができるではない)は「なぜ?」に対して真摯に向き合ったということだ。つまり自分ときちんと向き合えるということである。
これが勉強ではなく、スポーツや音楽だったりお絵かきだったりする人もいるだろう。(それだって本来は体育、音楽、芸術であり学問なのだが。)仕事もそうかもしれない。それがない人は勉強をするのだ。

勉強しないと、(自分と向き合わないと、)逃げる人生になる。うまくいかないことは全部他人のせいにしてしまう。だけど、学校の勉強が勉強の全てではないから一概には言えないのだが。

勉強する意味

勉強は実は手段だ。身につけた学問は発揮しなければならない。勉強はインプットだからだ。しかし、何かを表現するためには自分に材料がなければいけない。

自分という人間が人生を通して何を表現するのか、
勉強しない人間は知らず知らずに何処かで聞いたような誰かの人生の真似をして終わるのだ。それは舗装された道を初めて歩く気分なのではないか。
勉強した人は勉強しても見当たらなかった自分の個性を表現できるに違いない。それは本当に価値のあることだと思う。

最後に

学校の勉強で学ばないことはいっぱいある。数学だったら位相なんて高校数学じゃ絶対しないし、四元数を見てニヤニヤすることもない。インカ帝国のマニアックなことは勉強しないし、歴史を掘る考古学者の仕事が理解できるわけじゃない。アポロ18号や地球が丸いことが分かっても、風船にカメラを付けて飛ばして地球の丸い写真を撮る方法がわかるわけじゃない。学校で勉強ができなかった人は自分の「なぜ?」を追いかけてみたら良いのだ。
それは絶対役に立つ。
誰かの役ではなくて、自分の役に立つのだ。

どうにもならないこと

どうにもならないことって山ほどいっぱいある。問題が小さくても大きくても、無い袖は振れないってことだ。

今日はファミレスで後輩とおしゃべりした。そいつが悩んでることはずっと変わらない。だけど僕は素晴らしいと思う。諦観にまみれた大人の戯言なんかより美しいと思う。たとえ現実なる力が不足していても。

世界はきっと”あとひと押し”なことが多いのだ。”あとひと押し”で解決できることが、個人には”どうにもならないこと”としてふりかかってくる。
そんな中でみんな一人ひとり必死に戦っているのに公共の福祉だとか、もっと社会のことを考えようとか言われる。アフリカの貧困のことを考える前に目の前の誰も幸せにできない自分一人に辟易する。そんな中でもそれぐらいの余裕は持っていると勘違いしたいと思う。

そんな中で、”あとひと押し”のスイッチをもった人間が目の前に現れるとどうだろう。人はきっと逆境よりも甘えられる環境にこそ弱い。ゴールまでの距離もわからずに走り出してしまう。そして月日が立つと誰もたどり着けないけど、スイッチを持つ人が住むゴールだけが残って人を腐らせていく。

僕は今日の後輩が社会に出ると、十中八九、考えが変わって、変質してしまって、今日話したことを忘れてしまうだろうと思う。だけど、僕は覚えているのだ。彼が考えていたことや、どうにもできないことに対しての義憤や、その動機を。

写真や、文字や、動画にも残せない記憶の一つとして残しておこうと思う。だけど、自分がスイッチを持っている人間になれたら忘れてしまうかもしれない。他人にとっての”どうにもならないこと”がスイッチひとつのことに見えてしまうかもしれない。

その時、僕という人間はスイッチを押すことの正義に悩めるのだろうか。人間のどうしようもできない、どうにもできない、そんな部分に真摯に対峙できるだろうか。きっとスイッチを持ってしまうと、もっと難しくなるのだ。わからなくなってしまうのだ。

だから今日の出来事を忘れないようにここに書いておこう。

死んでも代わりは居る?

このブログが話題らしい。

死んでも代わりはいくらでもいるという現実」とタイトルがつけられたそれはなかなか興味深い。
筆者は「上司が死んだと思っているのはその上司の家族だけなのではないだろうか。」と述懐していて、私はなかなか間違ってもいないと思った。
でも、このブログでは、人生が仕事とプライベートに分けられ、仕事に関しては例外はあるものの代わりがいるものだと結論しているようだ。私は、それは間違っていると思う。

人生は仕事とプライベートの二元論か

確かに企業の経済活動は多少の滞折はあっても問題なく進むだろう。だが、それは代替可能な職務というだけだ。むしろ人が死んだくらいで社会が止まってはいけない。だからそういうシステムを人類が作ったと言える。
だが、職務は代替可能だが、人は代替可能ではないのだ。Aさんが作った書類とBさんが作った書類の違いは同じ書類であれば、せいぜい筆跡が違うくらいでフォーマットは同じだろう。それは書類を取り巻くルールが画一化を求めたからだ。かけがいのない仕事は無くなったら困る。誰かでしかできない仕事は少ないほうがいいのだ。でないと社会は混乱してしまう。

何にとっての代わりなのか

私はここに「かけがえのない存在」のミスリードがあると思う。”死んでも困らないから代わりが居る”のと、”同じ人が居るから代わりが居る”のでは全く違う。だから私は思うけれど、死んでも代わりは居るけれど、あなた自身の代わりはいないよと。

本当に意味があるものは目に見えないことが多い。おそらく、企業が管理している社員としてのヒトには代わりなんていくらでも居る。目と鼻と口がついていて脳があって、人間であれば十分だろう。

代わりがない部分は見えにくい

だが、社会の評価が届かない場所に本当の意味は確かに存在している。その人が生きている間、何をして、何を考えて、行動したのか、だ。作った書類に意味は少ない。本当の意味はなぜ誰でも作れる書類を必死に作ったのか、死ぬまで、どういう思いで生きたのか、だ。ここに絶対的な人生の意味がある。決して能力ではないのだ。

だから、変わりいてもかけがえのない個人なのだ。人が死んでから一番大きな意味を持つものは遺書であったり日記だ。日記は自分のために書いて残したものかもしれないが、文字は本来他者に気持ちや事実を伝えるものである。人間は自分の足跡を残したがっている。意味を自分で見つけているものなのだ。代わりがいない仕事をしている人は必死に後継者を探すはずだ。なぜなら代わりがいないと困るからだ。
代わりがいないと困らせて、自分の存在意義を見つけてはいけない。

代わりがあること

僕は代わりのあるものが好きだ。一点物の品物は使いにくい。だけど、文房具は量産品でもずっと使っていると同じものでもなんか違って感じる。これが僕にしかわからない文房具の価値なのだ。

僕はいつも遊んでいる友達が死んだら、しばらくして違う友達と遊ぶことになるけれど、”友達と遊ぶ”構図は同じだけど、友達は別人だ。そういうことなのだ。

欲しいもの

僕らが”望んでいるもの”。”欲しいもの”。実はそれらは”望まれているもの”、”欲しがられるもの”なのではないか?などと考えてしまう。
実ははじめから”ああしたい”や”こうしたい”には全てパターンがあってそれを夢見ているだけなのではないだろうか。

アポロ計画は月へ上陸を果たした。NASAはついこの間、49光年先の近さにハビタブルゾーンに位置する惑星郡をいくつも見つけた。

最近は僕らを怖がらせる地震も頻発している。

進化の様相も偶然の産物ではなくて本来物質の持つ物性が遺伝子の二重らせんを安定させていることがわかっている。

アメリカも”世界の警察”を引退するかもしれない。

僕らにとって発見であるはずのそれらはもとからあったものばかりだ。
当然、僕らの”ああしたい”や”こうしたい”ももとからあったものたちなのだろう。

そのうち膨大な不可能たちが当たり前の当然となっていくこの世界を受け入れていくことができるのだろうか。

こういったことを何も考えずに図鑑やテレビやニュースを夢中で楽しんでいた時間は少なくなっていくのか。

いや、”できるはずだ”が”どうせできるのだ”に変わる瞬間が一番怖い。

僕らが血を噴き出しながら望んいるのは結果となって固定化していく事実ではなくてそのプロセスの中で得られる価値なはずだ。

アポロ計画もハビタブルゾーンも地震だって遺伝子だってなんだって、どこかの星のより高度な存在からすれば当然の出来事なのかもしれない。だが、そこには関わった人間のドラマがある。

僕らの望んでいるものは、その価値は、大人が当然知っているものであっても、目の前のこどもが夢中になって目をキラキラさせて喜びを表現させながら追い求めていく何かなのではないか?

ロシアのプーチンだって、アメリカのトランプだって、北朝鮮の金正恩だって、小さい頃は目をキラキラさせていたのだろうか。

今、社会が”当然だ”という凶器でみんなの目の中のきらめきを奪っているのではないか。

僕らが本当に望んでいる、欲しいものは、まだ全然実現していない。誰もまだ”当然”にしていない。本気で言えば鼻で笑う人もいるに違いない。だが、本当は世界中の人が熱中して夢中になって追い求めたいはずだ。

僕は人間への評価が肩書やお金や権力ではなく、もちろん肌の色や性別や、育ちではなく、子供の頃に持っていた無垢な魅力で仲良くできると本気で思っている。
だが、これだけは”どうせできる”とは思えない。

どうやらまだ世の中は、予定調和ではない、かといってサイコロでもない、やるべきことが残っている。まだ十分キラキラできる魅力を残しているようだ。

少なくとも僕にとっては。

wordpress 4.7.0 4.7.1 の脆弱性に関して

すでに公開・公表されている脆弱性に関してです。
日本メディアに関しては以下にアナウンスされています。
https://www.ipa.go.jp/security/ciadr/vul/20170206-wordpress.html

バージョン、4.7.0、4.7.1を使っている方は4.7.2へ至急アップデートを行ってください。

内容はwordpressに備え付けのrestAPIを叩けば記事の内容が勝手に改ざんできるということ。

自動アップデートができていない現象があったので管理者は自分で確認したほうがいいです。

この記事は再現性のレポートになります。POCも公開されています。以下のコード。
https://github.com/linuxsec/pentest/blob/master/ruby/wordpress/41224.rb
rubyコードだけど、WebAPIを叩ければ誰でも単純に実行できます。

すぐにアップデートしましょう。

有人改札の思い出

今年福井県から有人改札がなくなるらしい(出典)。

私が育った田舎ではまだまだ自動改札は整備されてなかった。Suicaもつい最近の話な気がする。改札の通れるところは2つしかない小さな駅なのに駅員さんがぽつんと立っていて、ぱちぱちと切符をさばいてくれる。
私は自転車通学で電車にのることがなかったのだが、父と一緒に切符を買いに行くことがよくあった。

父の用事で電車にのるので僕には関係ないのだが、ついてこいというのである。小さい頃はついて行くだけで父は切符を自分で買っていたが、小学生高学年になると父は僕に切符を買わせた。父は自営業なので切符を買う時に領収書を貰わなければいけない。僕は父の言われたとおりに「駅名」と「お金」と「領収書」だけを覚えてよく切符を買うようになった。小学生の僕が間違えたら「買い直してこい」と言われ、後に小言を言われた。
今思えば父なりの教育だったのだろうか。僕は駅の切符売り場で「領収書」を学んだし、父が往復で遠くにいくときには「収入印紙」のことも勉強した。父は僕が説明できない時は駅員に聞けと言い、駅員が説明してくれない時はすごい形相で僕にらみ、駅員に怒鳴りに行った。父は例え相手が子供であっても仕事を疎かにしてはいけない。といった。

15年前、最後に父と駅に行ったときのことである。父は、目を細めて遠くの駅員さんを見つめて「ああいう人が僕は好きだ。」といった。その駅員さんは足が義足だった。その時、私は内心で「障害があるからって好きになるのか」と父に反抗した。偽善ではないかと思った。義足の駅員さんはいつまでもその駅で働いていた。何しろ僕が小学生低学年から今もまだ働いているのかもしれない。

時は過ぎ、私は大学に行き、帰省のたびに義足の駅員さんを見かけて僕は「あれが父が好きな駅員だ」と思っていた。そしてある時僕はハッとした。父が好きな駅員さんは仕事が速いのである。移動はもちろん義足のために遅いのだが、切符を売るのから改札のぱちぱちまですべての動作がその駅で一番だった。そういえば、その駅員さんから切符を買う時に僕が叱られたことも駅員さんが叱られたことも一切なかった。父はそれを知っていたのだろうか。この前最後に帰省したとき、自動改札になっていた。改札を通るときの切符のぱちぱちも「こんにちは」も「いってらっしゃい」もなくなっていた。

なんだか世界は”便利”と引き換えにして”なにか”を売り渡しているような気がする。
そのうち切符もなくなってしまったら、僕の知ってる父の好きな駅員さんがしていた仕事はもうなくなってしまうのではないか。
もう僕は今年で29歳だ。小さい頃の原風景が塗りつぶされていく速度が早い。

小さい頃は時間はゆっくりだったのに、今僕が見ているパソコンの画面も誰かにとってはノスタルジーな何かになっているのかもしれない。