たくさんの場所に行って

去年、オーストラリアに行った。オーストラリアに行って初めてポスター賞をもらった。「若手研究者頑張ってね」という賞だったけど、それでもうれしかった。何をしているかってことも大事なんだけど、初めての南半球はわかっていても驚くことがたくさんあった。

オーストラリアのゴールドコーストの海岸で夜に海に入って砂浜に寝転んで星を見た。

次の日に「サメが出るから入らないほうがいいよ」と言われたけど、とても貴重な経験だった。むこう側に見える海は太平洋で、アメリカ大陸のほうに向いているはずだけど、とても大きくて穏やかだ。

オーストラリアは海もいいし、星はもっと良かった。それは上下が逆になったオリオン座だ。

ヨーロッパの中世後期、封建社会を打ち破ったのは産業業革命だという。しかし、産業革命の前には世界中の航路を開拓した航海時代がある。航海時代はコペルニクスの地動説よりも前の時代だ。私は、当時の賢い人々はすでに地球が丸くて自転してる事を知っていたのではないかと思う。そうでないと説明のできない夜空が目の前に広がっているのだ。いくら教会が地球は宇宙の中心で夜空が不変のものだと説いても、荒波をこえてきた人間の目には逆さまの星座が見えるし、北極星はどんどん見えなくなるはずだ。
僕は生まれた環境や住んでいる場所、旅行なんかで人間の本質は変わらないと思うけれど、育っていく精神があると思う。与えられた情報の中で賢しげになってはいけないと思う。

“逆さまの”オリオン座を見上げるとき、自分の座標をどこに定めるのかを人は問われている。実はオリオン座に上も下も右も左もないんだ。いつか、宇宙のどこかからオリオン座を見れたなら、それはもうオリオン座だとは思わないだろう。地球に住んでいる限り、オリオン座の形はかわらないし、見ている星たちがオリオン座かどうかなんかで揉めなくてすむ。

オーストラリアは広い海と真逆の季節と、”逆さま”のオリオン座をみせる。オーストリアは僕に、僕らの故郷が地球なんだって言っているのだ。
僕らはどんなに遠くに行けるとしても、まだひとまず地球の範囲内だ。近い将来火星や月に行ったとしてもオリオン座の形は変わらない。

明日はパスポートの更新に行く。

なんで生まれた星を移動するのにパスポートが必要なんだろう。月に行くわけでも火星に行くわけでもないのに、生まれた星を移動するのに許可が必要なのはなんでなんだろう。

波は動かない

コンテナは画材のコンテが雑然と積まれているように見える。
雲はただのレイヤーのように動いていて、隙間に見える海は粘土細工だった。

窓際に一人で座ったのはいつぶりだろう、東京の戻る飛行機の中で僕の窓からはつやつやの海が見えた。
この海をなんていえばいいんだろう。飛行機から見ると海はびっくりするほど表情を変えない。固まったまま波はただの模様のようにして見える。絨毯のような海を見下ろして機内食を食べた。

離陸の際に写真を撮ったけれど、窓の水滴からフォーカスが動かなくて水滴の写真になってしまった。
飛行機の上からはインターネットから切り離されて、水滴だけが動いている空間になっていた。

僕は一人で乗る飛行機が好きみたいだ。

映画館も新幹線もいいけれど、飛行機のほうが非日常感があっていい。
それと、海外のキャリアの飛行機のほうが座席が広くていい。

どうしても逃げたくなったらまた飛行機に乗って海外に行こう。散歩をするだけでいい。
少しだけ話せる英語も話せないふりをして誰も知らない街で何もできない街を歩いて気分転換をしよう。
よくわからない食べ物とよくわからない飲み物を胃に入れてどんどん歩こう。

いつか、粘土のような海の上にも、まだ見ぬ砂漠にもいこう。

汽車に乗って、飛行機に乗って

この間、初めて夜行列車に乗った。

今は飛行機に乗って台湾に来ている。

そういえば、初めて新幹線に乗ったときを覚えている、父と二人だった。

父はあの時いくつだったろうか、梅田で少し迷子になって父はあてにならないと思ったのだ。
子供残酷で浅はかだ、大人でも道に迷うのに大人は道に迷わないと思っている。
初めての記憶は忘れないなと思う。毎日どんな事があっても家に帰るみたいに帰ってくる感情がある。
昔、聞いたYUKIのライブの音源で言っていた、二十歳の頃に夜汽車で上京したこと、ふとした時に思い出すこと、おとなになったこと。

そうだ、思い出すということが大人になるということかもしれない。穏やかに思い出せることが大人になるということ。
なんかいい感じの説得力がある。

初めての台湾はくっきりと思い出せるのに、もう夜行列車のことはあんまりだ。
自分一人の思い出ってそんなにないなあと思う。
自分一人の時間は消費を重ねていくばかりで何も価値のあることはできていないのかと思ったけれど、少し違った。
大学院生活がつらいときの思い出は穏やかに思い出せる。
それもやはりいつでも帰ることができる思い出なんだと思う。

はじめての台湾は6か月前で、往復は34000円ぐらいでLCCで観光だったけれど、今回は往復7万ぐらいのフルキャリアで仕事できている。
目的が違うだけで全然違う印象になる。つくづく物事の印象は自分の感情で決まるなあと思う。

思い出というのはストーリーではないんだなあと思う。感情なのだ。感情がそのまま保存されている。
それを溶かして思い出す時、追体験をする。
穏やかに思い出せるのは自分が時間とともに少し変わって同じ感情を飲み込めやすくなっているんだと思う。

あと二日間は台湾にいるけど、もう日本のご飯が食べたい。

あともうなんか人に嫌われたくない。おこられたくない。誰かの感情でびっくりしたくない。

ベイクォーターで乗れる船

いつも思い返して不思議なのだけど、横浜駅に行くときは思っていた場所に行けないことが多い。

ケーキ屋もそうだし、チョコレート屋さんもそう。
栗原はるみのご飯屋さんがベイクォーターにあったころによく横浜に行ったけど、今は関東には日比谷にしかないらしい。

10年前、横浜から水上バスに乗った。その頃のイメージとは全然違ったぼろい船で触ろうと思えば海に触れるぐらい距離が近くて、しぶきが顔に当たってた。

あの頃は10分ほどしか乗らないのにこんなにお金かかるの?とか思ってたし、椅子が薄いブルーのプラスチックで、座る前に水に濡れていないか確認して座った。
誰と行ったかもあまりよく思い出せない。

君たちはどう生きるかをみた

金曜日に見てきました。現代美術の企画個展みたいな作りの映画で楽しかった。これは吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』のアンサー映画だと思う。

一部では宮崎駿の集大成などと誇張しているがそれは正しくない。集大成ではないがそれよりも良いものであるというのが私の感想です。
メーテルリンクの「青い鳥」をサギに置き換えたような進行で物語は進む。戯曲のような心象をつなぎ合わせたような作りである。
これはなぜかといえば吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」に対する、私はこう生きたぞというアンサーだからである。
新海誠に影響でもうけたんか?と思いたくもなるし、黒澤明の『夢』のような作りだ。

だから集大成というにはチャチな作りですべての表現が今までの映画の下位互換のように受け止められて自然である。
つまり、これまでの作品を彷彿とさせる各シーンはセルフオマージュではなく、ただの素描、デッサンというのが正しい。
あれは、小さい頃の宮崎駿がこう生きようと考えていたと、その現れと考えることができる。

最後の結末で、石を持ってきてしまった主人公は、ある意味子供のまま大きくなってしまった宮崎駿を指しているといってよい。
振り返れば自身の作品のエッセンスが人生のそこかしこにあったと。そういう意味である。
さて、ここまで読めば理由はともかく、僕がアンサー映画だと主張したいことがわかると思うが(笑)、この映画見て我々に宮崎駿が迫る回答は『お前らは何を考えてどう生きるつもりなのか?』ということである。

今回、宮崎駿が提示するメッセージはとてもわかりやすい。石を持って帰ってこいという話だ。今抱えているエッセンスを忘れないでというメッセージ。

ちなみに、公開直後の監督のインタビューはいつも嘘ばかりなので気にしてはいけない。

あ、そうだ。たぶん、あの映画には今までの作品になっていない未発表のエッセンスが巧妙に隠されているのでそれを探しながら見ると面白そう。

リトル・マーメイドを見た

働き始めてから一人で出張に行くことが多い。院生の頃は後輩と学会発表に行っていたので一人で行くとなるととても気楽で少し寂しい。今日から一週間を香川の小豆島で過ごすけど、岡山で育ったのに一回も行ったことがない。
瀬戸大橋も初めて渡ると思う。そんなわけで僕は今サンライズ瀬戸に乗ってこの文章を書いている。
八王子駅から横浜駅でサンライズに乗り換えて高松に向かう。高松には朝の7時すぎに着くし、横浜駅では途中下車をして腹ごしらえと映画を済ませてきた。八王子駅で髪の毛も切ったけど、サンダルを買うのを忘れたな。
時系列に逆らってしまったけど、このブログでは勘弁してほしい。細かいことはどうでも良くて今の思考を辿れたらそれでいいのだ。

サンライズ瀬戸

さて、リトル・マーメイドを見てきました、今日で2回です。前回吹き替え見たから今日は字幕だなって思ってたけど、どっちも字幕だったっぽい。今日見てわかるのだから本当に記憶というのは曖昧なものだ。
こんな言い方をすると、記憶が曖昧なんて頼りないと言われそうだけど、僕は曖昧な記憶に頼って生きていくことはなるべく減らしたい。記憶頼りに断言することなんて怖くてできない。だけど、記憶力に自身がないわけではないよ。

配役について疑義のある人がいるみたいだけどそんなことはない。とてもいい映画だった。

リトルマーメイドの実写版は『僕たちわかり会えるよね?』って問いかけだ。

意地悪なおばの魔女も見方が違うだけで無理解になる父も人間とわかり合いたいアリエルが傷ついたり、行動を起こすと出てくる。
いつも手伝ってくれるフランダーはイエスマンだし、セバスチャンはなんだかんだ味方になってくれる。

ものがたりはアリエルが父と言い争って「見方が違うだけなのに!」と叫ぶところから動く。

今作のアリエルは無鉄砲で無邪気なだけではない、賢く芯があって親思いのキャラクターだ。
物語は海と陸で進んでいく。
アリエルは自分の無知から父を危険にさらしてしまい、王子のエリックと一緒になって戦う。
アリエルは父に反省を示して、エリックはアリエルの残したドレスを抱いて母の「世界が違うのよ」という言葉でドレスを海に返す。

物語は一度、アンデルセンが記した結論を提示する。
そう、アリエルは泡になって溶けてしまったのだ。

そこから暗転して、経過を語られることなく、アリエルは父に人間にしてもらい陸に登り、いつの間にか理解者になった母に見送られてハッピーエンドだ。

本当に物語はハッピーエンドなんだろうか?暗転しての物語の結論は「見方が違う人とわかり会えることは難しい」ことを示唆しているんじゃないのか。
難しいけれど、「わかりあえるよね?」ってことだ。
アンデルセの物語からもう何年立つのかわからないけれど、僕たちはわかり会えるのだろうか?

みんなが抱えている、誰もわかってくれない、いつか泡になって消えてしまった気持ちにまた会える日は来るんだろうか。

車窓から見えるJRの線路には人がいないけれど、なんだか特別な感じがする。
泡になって消してしまっていたのは、誰とでもわかり会えるはずだっていう自分の気持ちなんじゃないのか、そう思ったら心の中のネプチューンや女王が自分の世界から出てはいけないとささやく。
映画は肝心なところは隠してしまって何も教えてくれなかった。

いい映画だけれど、諦観がところどころに見える。「理想よりも目の前の事が大事です」っていうセリフも実はなんの意味もなしていない。エリックの目の間にはいつも理想があったからだ。
エリックもアリエルも困難から逃げない。
問題の本質を見つめて逃さない。

問題の本質を逃さなければいつか分かりあるのだろうか、ぼくもあなたも。

鯉のぼり

僕に仲良くしてくれているイギリスの留学生が私はコイキングですと、ギャラドスになりますと言い始めた。
どうやら彼は最近、日本で鯉が龍になった伝説を聞いて感銘を受けたらしい。
「登竜門」とか言葉があるように、鯉が滝を登って龍になるって伝説のことをみんなが忘れていてもモチーフとして残っているのが面白い。

彼とのおしゃべりと簡単な打ち合わせを終えて自室に戻ると机の上に一枚の写真があった。L判のインスタントカメラで撮った写真、写真の周りに白い縁があって時代が立っているとわかる。
この写真のことはよく覚えている。
一番仲の良かった友達と鯉のぼりをつけた竹の棒をもって僕が写っている。
その日はなぜか父の機嫌がよくて家の裏にある竹の棒の先に鯉のぼりをつけて持たせてくれた。
友達とそれをもって外に出たけど、風が強くて鯉のぼりは小学低学年の僕らには重たかった。
友達がお母さんに見せたいと言ってその子の家に向かう途中、近所のおばあさんがニコニコしながら道に出てきて取ってくれた写真。
鯉のぼりを持って歩く僕らにみんな優しかった。

その後しばらくして、友達が亡くなってしまって、しばらくその写真は実家のアルバムに挟んで置きっぱなしにしていたけれど、大学院で思うように結果が出ない時にその写真を持ってきた。
なにか、友達が守ってくれるような気がして机の上において頑張ってきた。
僕が持っている写真は少なくてその写真以外は他の友達も写っているからなんだか悪い気がしてこの写真を持っているのだ。
留学生と話して、子供の日にとった写真だと思いだした。もう30年近く前だ。

あの頃の鯉を机に置いて、立派な仕事をやりたい。

お金とか賞とかじゃないあの頃の鯉に褒められたい。

龍になりたいとは思わないけれど、あの頃の鯉が僕にとっての希望だ。

コインランドリー

12時を過ぎたころ、アパートからコンビニまでの道を歩いていると、やけに標識やガードレール、横断歩道や歯医者の看板が目に入ってきた。
八王子は腐っても東京なのか、どこかの明かりがそれらを照らしていた。
ふと空を見ると、西の低い空に月明かりがしていて、暗い空に雲が平らに横たわっている。
信号機以外のすべての色がくすんでみえて、これがグレーって色なんだって意外な発見をして歩いた。
今年度は引っ越しするかもしれないとか思うと、街も違って見えるらしい。
コンビニで野菜ジュースを買って小銭を作ったら、またアパートに戻って残りの洗濯物をもってコインランドリーに向かった。

土曜日の今日は二週間分の洗濯物がたまっていて、それでも何もやる気がせず、夕方になり自分でもあきれながら5回ぐらい洗濯機にかけた。
二回に分けて今ランドリーの一番大きい乾燥機に持ち込んで8分100円、64分間乾燥機にかけた。
二回目にコインランドリーに行ったとき、19歳ぐらいだろうか、男の子が乾燥機に服を入れ、女の子が大きい洗濯かごに乗り込んでクスクス笑いながらはしゃいでいる。僕が入ると、少し二人の声のトーンが落ちたけれど、上機嫌のまま男の子が洗濯機に入れ終わると去っていった。

最近仕事では頼りにされることが増えて、自分しか問題点を理解していないような局面が増えた。普通なら黙っているんだろうけれど後で誰かが困ると思うと放っておけずに働いてしまう。それで事情を知らない人には僕が仕事を増やしているようにも見えるらしく、反感を買ってしまった。みんなできるだけ仕事を楽にしておきたいらしい。おしゃれな小説でよくある情景描写で登場人物の心理状況を描写するのは、あれは、テクニックじゃないんだって気が付いた。

今日はこの文章を書き終えたらコインランドリーに洗濯物を取りに行って、丁寧にたたみ終えたら仕事をして寝て仕事をしてスーパーに行って寝たら月曜日だ。もしかしたら日曜日には映画館に行ける時間があるかもしれない。
明日はありったけの糖分を買って来週の仕事がはかどるようにしてしまおう。
そして来週は忘れずに洗濯機を回そう。

そういえば2か月前に台湾へ遊びで行ったけれど、台湾のコインランドリーではコインを飲まれてしまった。台湾の街もくすんでいた。

あと二十年ぐらいして時間があったら小説を書きたい。

僕らの出会った場所

今年も去年も暖かい冬だなあとおもっていたけれど、そんなことは全然なかった。めっちゃ寒い、最強寒波らしい。12月にコンバースの綿のダウンじゃないダウンを買って着ている。

去年の3月からSpotifyに月額980円を払って音楽を聞いているのだけど、ここ3か月はずっとSalyuの歌しか聞いていない。最近は「僕らの出会った場所」ってやつを聞いていて、
言葉にできない感動を言葉にしようとしてこの文章に向き合っているけど、うまく言葉出来ない。

はじめは歌詞かなと思ったけど、たぶん違う。声がいいのだ。声がいいから歌詞はあんまり耳に入ってこない。声がいいから歌詞の文章の意味がよくわからないのに言葉だけが入ってくる。

燈台も星も光るものは君を指している。どこかではなくて何かでもなくて君という人間を指している。

場所や位置ではなくて人間を照らしている。それが分かる声だ。